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富士スピードウェイ(ふじスピードウェイ、''Fuji International Speedway'' )は、静岡県駿東郡小山町にあるサーキットである。略称は「FSW」。かつては運営会社の「富士スピードウェイ株式会社」の英文社名"Fuji International Speedway Co.,Ltd"にちなみFISCOと表記されていたこともある。2000年よりトヨタ自動車の傘下に入る。 == 歴史 == === サーキット建設のいきさつ === 富士スピードウェイ建設は、丸紅副社長森長英から河野一郎(建設大臣)に話があった。その頃河野は名神高速道路の建設を担っており、長時間高速走行可能な国産車を開発する必要があり、また自動車の輸入自由化のこともあり、外車の性能と比較しても遜色ない国産車を開発するには、サーキットの存在は大きな意味があった〔『サーキット燦々』(p320, p321)より。〕。鈴鹿サーキットはホンダのサーキットであり、また、当時は二輪レース用のサーキットと思われており、四輪レースにも十分な幅員を持つサーキットが望まれていた〔『サーキット燦々』(p326)より。〕。 富士スピードウェイの建設用地は99年間の借地権によるものである。建設費用は借入金によるところが大きいが、河野が逝去したため、日本ナスカー(株)副社長河野洋平は建設資金集めのために銀行や企業回りをし、非常に苦労する〔『サーキット燦々』(p322, p323)より。〕。 富士スピードウェイ株式会社の前身「日本ナスカー株式会社」は1963年(昭和38年)に設立。その名の通り日本国内におけるNASCAR形式のレース開催を目的として設立され、翌1964年(昭和39年)1月にはNASCARとの間で日本及び極東地域におけるNASCAR形式レースの独占開催権に関する契約を締結。同年6月にはサーキット候補地として静岡県駿東郡小山町大御神の150万坪の土地を選定し、地権者らとの契約にこぎつける。 コースレイアウトは、NASCARのレースが行われるアメリカのデイトナ・インターナショナル・スピードウェイに似たトライアングル・オーバルトラックを予定しており〔Honda F1ルーツ紀行 幻のHondaインディ計画 第三章 - 本田技研工業(2012年11月21日閲覧)。〕、1964年7月にはデイトナを設計したチャールズ・マネーペニーが来日し、原案の製作に取り掛かった。しかし、日本ナスカーの招聘によって現地を視察したスターリング・モスが「こんな地形でオーバルコースを作るとはナンセンスも甚だしい」と指摘した通り、山麓の傾斜地という立地条件からオーバルコースの建設が困難なことが判明した。1965年(昭和40年)にはNASCARとの間の開催権契約を白紙還元することで合意。改めてヨーロッパ式のロードコースとしてサーキットを建設することとなり、社名を現在の「富士スピードウェイ株式会社」に改めた。同年10月には三菱地所が同社に出資、実質的な経営権を握ることになる。 河野洋平によると、コース設計には様々な案があり、結局日本のレースにも適した現在のコースに決まり、建設を開始したという。河野洋平のアメリカ視察は建設開始後であった。また、NASCARの契約料は高額で、河野たちは不満を持っていたし、NASCARの経営方式が日本で通用するとも思っていなかったので、NASCARとの契約をやめることにしたという。そして会社名も富士スピードウェイ(株)と変わる。「サーキット」ではなく「スピードウェイ」という名をつけたのはオーバル計画の名残である〔。それからサーキットの愛称について河野らは考えたが、呼びやすい愛称ということで、正式社名にはない「インターナショナル」を入れて「フジ・インターナショナル・スピードウェイ・カンパニー(Fuji International Speedway COmpany)」とした〔『サーキット燦々』(p329, p330)より。〕。 当初、富士スピードウェイの経営には三菱地所は関わっておらず、丸紅、毎日新聞社、富士急行が関わっていた。三菱地所が行動を起こすのは河野一郎の逝去後である。三菱地所は富士スピードウェイに隣接する土地を所有しており、そこで冨士霊園の経営を行っていた。三菱地所社長渡辺武治郎は特に富士スピードウェイの借地内にあるゴルフ場に関心を持っていた。富士スピードウェイ社長鈴木九平と渡辺との間で交渉がまとまり、また河野洋平も亡き父・河野一郎の後を継いで政界に入って富士スピードウェイを退職し、以後は三菱地所に経営を託すことになる〔『サーキット燦々』(p330, p333 - p335)より。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富士スピードウェイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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