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富士名 雅清(ふじな まさきよ、永仁4年〔明治45年発行の『道月餘影』に記載の没年齢から逆算。〕(1296年) - 建武3年(1336年)1月)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士。通称は三郎。若狭守護。『太平記』では富士名義綱〔義綱の名は、明徳の乱で山名氏と結び没落した、同族の塩冶義綱との混同か。〕、富士名判官で知られる。父は湯信清〔『若狭国守護職次第』〕、或いは湯宗清とも。 富士名氏は佐々木氏から出た湯氏の支流で、出雲八束郡布志名(富士名)の地頭。 元弘2年/正慶元年(1332年)、鎌倉幕府打倒を志した後醍醐天皇が隠岐へ流刑となった(元弘の変)。雅清は、北条氏の命により後醍醐の警固役の一人となったが翻意し、後醍醐の隠岐脱出を計画する。(『太平記』巻七「先帝船上臨幸事」) 脱出に向けて雅清は、同族で出雲守護塩冶高貞の助力を請おうと出雲へ帰還するが、高貞により幽閉された。翌元弘3年/正慶2年(1333年)、雅清の帰島を待たず隠岐を脱出した後醍醐は、名和長年に迎えられ船上山に築いた行宮へ入り、追跡してきた隠岐守護佐々木清高と交戦する(船上山の戦い)。この情勢を知り、腹を括った高貞は雅清と共に後醍醐の元へ馳せ参じた。その後も、後醍醐に随行し上洛するなど宮方として倒幕に貢献した。 建武政権では若狭守護に補任された(『若狭国守護職次第』・『大徳寺文書』)。南北朝の争乱が起こると、南朝側として足利尊氏ら北朝方と各地で戦い、建武3年(1336)正月、京都で二条師基軍の武将として北朝方と戦うも戦死した。享年41。 明治31年(1898年)、顕彰碑が意宇郡判官山の頂に建立され、大正4年(1915年)、正四位上を追贈された。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富士名雅清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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