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富士川 游(ふじかわ ゆう、慶應元年5月11日(1865年6月4日)- 昭和15年(1940年)11月6日)は、日本の医学者、医学史家。旧姓は藤川、幼名は充人。安芸国沼田郡安村大字長楽寺(後に安佐郡に編入、現・広島県広島市安佐南区長楽寺)出身。 == 生涯 == 医師・藤川雪の子に生まれる。雪は医師であるとともに和歌・漢詩にも優れ、1872年の壬申戸籍作成時に「藤川」を佳字である「富士川」と改名している。 1879年、藩校浅野学校(現・修道高等学校)から広島県立中学(現・国泰寺高等学校)に転学を経て1887年、広島医学校(現・広島大学医学部)卒業。同級に尼子四郎ら。上京し明治生命保険の保険医となる。傍ら中外医事新報社に入社。社用で全国各地を旅する機会に恵まれ寸暇を見て各地の先哲、名医の遺著や文献の発見に努めた。また所属する出版社から多数の医学雑誌を創刊、呉秀三らとも親しく交わり医学史に興味を持つ。1890年第1回日本医学会では記録幹事を務め、日本医学の近代化の先達として前野良沢の贈位を政府に対し要請、これが取り上げられ1893年、前野に正四位が追贈された。この頃から「医学という学問が進み、技術がいかに進んでも、医道が確立されていなければ、十分ということはできない」と、日本医史学という前人未踏の分野に挑む。日本にも長い医学の歴史があるが、史料を集めるのが困難である、それどころか資料の分布所在さえつかみ難い、史料の真偽を見分けることが困難、高度の鑑識眼を必要とする、古文書の文字の解読に特別の知識を必要とする、医学の歴史は過去の時代時代の政治と文化の結果故、これについて十分な教養を必要とする、順序よく分類し体形付け編述することが困難、今日の文化、学術、政治についても十分な知識を必要とする、これらの困難を克服する実力と根気強い意欲が必要、とこれらの理由から日本の医学史は世に出ていなかった。更に当時は西洋医学の全面的な礼賛の時代であり古い和漢医学は省みられなくなりつつあった状況も富士川に強い危機感を与えていた。当時富士川の医学文献蒐集を競ったのが日本人ではなく、清国外交官として日本に滞在中であった楊守敬であった事実がそれを物語っている。1895年、呉秀三と医史社を興し多数の書籍を発表、また「中央公論」などにも多数の論文を発表、講演を行う。 1889年、結核を病みながらも西洋医学を学ぶためドイツ・イエナ大学に留学。世紀転換期のドイツで神経病学および理学療法を研究、ドクトル・メディチーネの学位を取得。また性科学、教育病理学、教育治療学、犯罪人類学など、新興医学に触れる。1890年帰国後、東京日本橋の中洲養生院の内科医長となる。1897年、同郷の呉秀三、尼子四郎らと芸備医学会(現在の広島医学会)を設立し広島地方の医学水準向上に寄与。1902年、児童の研究は心身両面から行うべきと日本児童研究会(のち日本児童学会)を創立。ドイツ留学で出会った教育病理学、教育治療学を体系的に論じた。これらは精神薄弱の発生原因が血筋や家系といわれた時代に於いて、科学的判断をした草分け的なものであった。のち1915年設立された民間児童相談所の草分け・日本児童学会附属児童相談所創設などにも関与した。1904年畢生の大著『日本医学史』を刊行。太古から明治中期に至るまでの日本医学の発達変遷を詳細かつ系統的に述べた10章1000頁余に及ぶ同書の完成によって日本の医史学は初めて確立された。同書はのち1912年、帝国学士院(日本学士院)が創設した恩賜賞を受賞した。1914年文学博士の称号を得て多くの帝国大学、慶應義塾大学で医学史を講じた。 活躍の舞台は医学史に留まらず医制、医師法、医薬分離問題にも関与。『日本医学史』刊行前後に日本内科学会、医科器械研究会、看護学会、癌研究会、人性学会、日本医師協会など多くの学会、協会を設立し医学の発展に尽力した。また医学的生物学的知識にもとづく性教育を奨励。1908年、高輪中学(現高輪中学校・高等学校)校長・龍口了信に依頼され同校に於いて性教育授業を行い大きな反響を呼んだ〔 学術研究 早稲田大学教育学部2004 〕〔立命館大学大学院先端総合学術研究科 WORKS 松原洋子 〕。1906年東洋大学教授。1912年『日本医学史』に次ぐ第二の巨弾『日本疾病史』を刊行。これにより1915年医学博士の称号を得る。博士が続々出現するのは1920年以降であり、それ以前にこれを得るのは容易でなかった。特に帝国大学で教育を受けていない富士川への授与に対して反対運動があったと言われている。この頃から宗教面での活動も目立ち1921年、日本女子大学などと共に日本で最初に社会事業教育を行う東洋大学社会事業科初代科長就任。1922年、鎌倉中学校(現・鎌倉学園高等学校)を設立し初代校長。1923年、寓居の鎌倉で関東大震災に遭い負傷。1925年、大阪のプラトン社が「婦人文化、家庭文化の向上、児童の健全育成、宗教による精神文化の向上」を目的とする研究機関「中山文化研究所」を併設。富士川は所長に招かれ、この中に婦人精神文化研究会を開設し書籍の発行の他、先駆的な女性文化研究・児童教養研究等を行う。1926年開館した浅野図書館(現・広島市立中央図書館)建設にあたり高楠順次郎らと共に顧問として尽力。1927年、父が創設した研究団体であった奨進医会を継承する発展させる形で日本医史学会を設立した。 医学雑誌のみならず婦人雑誌、家庭雑誌、看護婦雑誌、新聞の家庭医学欄など、自身が手掛け、或いは協力して出した出版物は千数百件を超える。こうした医学関係の出版物の充実に富士川の後世に残した功績は絶大である。医学者であると同時に医学ジャーナリズムの開拓者、医学ジャーナリストの草分けでもあった。 1940年胆石病で逝去。享年75。 医学史編集にあたり全国各地から集めた4340余部、9000余冊の集書は京都帝国大学に寄贈され、現在、同大学図書館のホームページで「富士川文庫」として全目録が検索でき、貴重史料を含む403点は全頁画像の閲覧が可能。また教科書や教育関係資料図書171点は東京大学教育学部の「電子版富士川文庫」としてこちらも全目録検索、全頁画像閲覧ができる。 広島大学医学部構内と広島市安佐南区長楽寺三丁目に顕彰碑がある。四男・富士川英郎はドイツ文学者となり、またその子・富士川義之も英文学者となって東大教授を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富士川游」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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