|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 富 : [とみ] 【名詞】 1. wealth 2. fortune ・ 櫻 : [さくら] 1. (oK) (n) (1) cherry blossom 2. cherry tree 3. (2) decoy 4. fake buyer 5. shill 6. (3) hired applauder ・ 栄 : [さかえ, はえ] 【名詞】 1. glory 2. prosperity ・ 守 : [もり] 【名詞】 1. nursemaid 2. baby-sitting
富士櫻 栄守(ふじざくら よしもり、本名:中澤 榮男(なかざわ よしお)、1948年2月9日 - )は、山梨県甲府市出身で、1970年代から1980年代にかけて活躍した大相撲力士。高砂部屋に所属していた。最高位は西関脇(1974年3月場所、1978年9月場所)。現役時代の体格は178cm、141kg。得意手は突き、押し。 == 来歴 == 甲府市立西中学校では柔道部に在籍し、活躍した。 農家の長男であった〔朝日新聞 2012年7月21日〕ことから角界入りには反対されたが郷里の先輩である小結・富士錦(後、年寄・西岩→同・尾上→同・高砂)らの勧めで、中学卒業後の1963年3月に上京し、高砂部屋へ入門。同年3月場所にて、15歳で初土俵を踏んだ。 1970年1月場所で新十両昇進、1971年9月場所で新入幕を果たした。突き押しをもっぱらの戦術とし、ひたむきな土俵姿は相撲ファンから突貫小僧(後には突貫おじさん)の名で愛された。気っ風の良い相撲ぶりから、「甲斐の江戸っ子」とも呼ばれた。 昭和天皇も富士櫻の土俵を好んだという。同じ押し相撲の麒麟児との対決は特に人気があり、東京場所では天覧相撲用のとっておきの割として重宝された。中でも1975年5月場所の8日目、東小結・麒麟児対西前頭筆頭・富士櫻の一番は、激しい108発の突っ張りの応酬もあり大いに盛り上がった。富士櫻の口の中が切れるほどの激戦で、昭和天皇も身を乗り出し固唾を呑むように勝負の行方を見守った。2003年に日本経済新聞が掲載した「大相撲の名勝負ベスト10」で第5位に選ばれたこの一番で富士櫻は敗れたが、思い出に残る相撲としてこれを挙げている。両者は互いによき好敵手として認め合う仲であるのと同時に親交が深く、現役時代には三番稽古をよく行なっていた。一門が違うため合同稽古の機会は少なかったが、巡業などで顔を合わせる機会は多く、その度にどちらからともなく山稽古を持ちかけるのが常だったという。 四つに組むと弱い小柄な力士であったが、人一倍稽古に励み関脇にまで昇進した。その稽古熱心さは師匠の4代・高砂(元横綱・前田山)がやめろと言わない限りいつまでも稽古するため、他の力士が「もっと稽古せんか」と注意される中で彼だけは「稽古熱心もいい加減にしろ」と注意を受ける程だったという。同部屋で、同じく関脇まで昇進した高見山との三番稽古は高砂部屋の名物であり、若い衆にとっては、傍で2人の稽古を見ているだけでいい勉強になるといわれた。富士櫻の稽古熱心ぶりを伝えるエピソードであるとともに、稽古の質の高さも伺わせるものである。そして負けると、「まだ稽古が足りない」と言って稽古量を増やしていた。また新弟子にも率先して稽古をつけていた。そのような力士であったため、角界きっての毒舌家として今でも名高い天竜三郎や玉ノ海梅吉(ともに、元関脇)が「あれほどの力士はいない」「富士櫻を褒めないわけにはいかない」と絶賛したほどであり、特に角界ナンバーワンの毒舌家だった天竜から褒められた力士は数多くの力士の中でも彼1人だけである。突き押し力士であったが立合いもきれいであり天竜は「あれの立ち合いはいつ見ても気持ちがいい。特に対貴ノ花戦は」と評価していた。〔天竜は貴ノ花に対して特に辛辣だったようであり「兄の人気に乗っているだけ」といった極端な批判も中継で公然と数多く行った。〕 2代若乃花には11勝17敗とたびたび苦しめ、9つの金星のうち3つを若乃花から挙げた。若乃花の新横綱場所である1978年7月場所では初日に対戦して若乃花に横綱初黒星をつけた。また1974年1月場所では、3横綱(北の富士・輪島・琴櫻)を全て倒した。陸奥嵐との対戦に強く、同じ関脇を最高位としながら11戦全勝と一方的な記録を残した。 1963年5月場所で序ノ口に付いてから1度も本場所を休むことはなかったが、1984年1月場所に斉須との一戦で左アキレス腱を断裂して初の休場を余儀なくされた。しかし、富士櫻が残した「1543回連続出場」という記録は、現在もなお大相撲史上2位の連続出場記録として輝きを放っている。以後は十両で相撲を取り続けるも、幕内復帰は成らなかった。西十両9枚目で3勝12敗に終わった1985年3月場所を以って、37歳で引退。この場所では、弟弟子の大関・朝潮が初の優勝を果たし、最後の餞として優勝旗を持たせてもらった。場所後、年寄・中村を襲名。 引退後は部屋を持つ意向はなく、師匠の5代・高砂(元横綱・朝潮)にも「(親方として)部屋に残ります」と約束していたものの、ある時、上半身の怪我で稽古ができない力士に対してランニングやウェイトトレーニングをするように声を掛けたところ、師匠から「そういうことは言わなくていい」と止められたことを機に「自分の考え方で弟子を育ててみたい」と思うようになり、独立の過程に際しては高砂親方を怒らせる騒ぎにもなった〔時事ドットコム・若林哲治の土俵百景:最後のひと押し 時事ドットコム 2011年8月31日記事〕ものの、1986年7月に高砂部屋から独立して中村部屋を創設した。角界きっての人格者として知られ、弟子に対する粘り強い指導で知られた。また、所属力士達を通信課程制の高校に入学させ、高校卒業資格を取らせるなどの先駆的な試みをして注目を集めた。引退当初こそは「稽古ができなくなって引退した」という理由で稽古場に立つことは無かったが部屋持ちになってからは自ら胸を出すようになり、50代を過ぎてもなおまわしを締めて弟子に稽古をつける様子は現役時代を彷彿とさせた。その指導を題材に、平石耕一が戯曲『はあたろう物語』を執筆、みずからの演出で上演した。 また力士としては大成しなかったものの、後にお笑い芸人になった安田大サーカスのHIROも育てている(元序二段「和歌桜」)。 日本相撲協会では勝負審判の他、再発防止検討委員会委員を歴任。2010年には、無投票で副理事に当選し、審判部長に就任、2012年1月まで務めた。 2013年2月8日の停年(定年。以下同)退職を控えて2012年12月19日に中村部屋は閉鎖することになり、行司1名は八角部屋、自身と所属力士5名・床山1名は東関部屋へ転属することになった。そして、2013年2月8日に日本相撲協会を停年退職した〔元富士桜の中村親方「小僧と言われ困った」 定年会見 スポニチ 2013年1月25日 06:00配信 〕。退職後は、長年の指導実績が買われ、東関部屋の師範代として迎え入れられている〔 デイリースポーツ 2013年4月3日 配信 〕。 長男・信栄は2009年にフォークシンガーとしてソロデビューした。旧中村部屋の玄関には信栄のポスターが貼られ、CDもよく聴くという。停年間近の時期にあった中村はライブに部屋の力士達を連れて行き「しんどい思いしてんのは、相撲取だけじゃねえからよ」と説いたことがある。〔朝日新聞 2012年7月21日〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富士櫻栄守」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|