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富樫 泰家(とがし やすいえ)は平安時代末期・鎌倉時代初期の武将。通称は左衛門。能の演目『安宅』、歌舞伎の演目『勧進帳』の安宅の関関守・富樫左衛門のモデルとしても知られる。家系の富樫氏は藤原利仁に始まる一族だといわれている。富樫家経の子。富樫重光の父。 == 略歴 == 寿永2年(1183年)、源義仲の平氏討伐に応じて平維盛率いる大軍と加賀・越中国境の倶利伽羅峠にて対陣。燃え盛る松明を牛の角に結びつけ、敵陣に向けて放ち、夜襲をかける。この大胆な戦略が功を奏して大勝。寿永3年(1184年)に義仲が源頼朝の命を受けた源範頼・源義経に討たれた後は加賀国の守護に任ぜられる。 文治3年(1187年)、兄・頼朝から追われ、山伏に扮して北陸道を通り、奥州平泉(現岩手県西磐井郡平泉町)を目指していた源義経一行を追及し、義経本人であることを確信しつつ、武士の情と武蔵坊弁慶の読み上げる「勧進帳」に感心し、義経一行を無事に通過させたという。そのことにより頼朝の怒りを買い、守護の職を剥奪された。後に出家し法名を仏誓とし、名を富樫重純(成澄)と改め、一族と共に奥州平泉に至り義経と再会を果たす。その後しばらく平泉に留まったが、後に野々市(現石川県野々市市)に戻り、極めて長寿であり天寿を全うし、そこで一生を終えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富樫泰家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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