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富樫 稙泰(とがし たねやす 文明6年(1474年)? - 天文4年(1535年))は、戦国時代の守護大名。富樫氏16代当主(富樫高家の代から数えての数)、加賀国守護。富樫泰成の子(富樫泰高の次男とも)。子に泰俊、晴貞。通称は仮名次郎。 == 生涯 == 文明6年(1474年)頃、富樫泰成の子として誕生する。はじめ恒泰(つねやす)と名乗った。父・泰成が早世したため、祖父・富樫泰高の跡継ぎとして指名される。 明応2年(1493年)に室町幕府が赤松政則に北加賀半国の支配を安堵した事で泰高の影響力の低下を懸念し京より加賀に帰国。翌明応3年(1494年)に明応の政変によって失脚した10代将軍・足利義材が越中で挙兵した時には一向一揆の洲崎慶覚・河合宣久と共に越前に侵攻し朝倉貞景と交戦したものの、洲崎慶覚の裏切りや河合宜久の戦死によって明応5年(1495年)には撤兵した。 こうして自身の手によって義材を復権させることは叶わなかったが、のちに大内義興の助力によって将軍職に復した義材改め義稙の偏諱を受け諱を稙泰と改めた。 享禄4年(1531年)、享禄の錯乱にて小一揆方の味方をしたため、大一揆方に敗れて加賀守護の地位を追われ、天文4年(1535年)に死去。法名は泰雲寺殿通安。 これにより富樫家の権威は完全に失墜し、本願寺が本格的に領国内調停者の地位を確立した。嫡男の泰俊は小一揆に味方したため逃亡、家督は次男の晴泰(晴貞)が継いだ(のちに晴貞が一向一揆に攻められて自害したため、泰俊がその跡を継いでいる)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富樫稙泰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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