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富田メモ(とみたメモ)は、2006年7月に日本経済新聞によりその存在が報道された元宮内庁長官・富田朝彦がつけていたとされるメモ(手帳14冊・日記帳13冊・計27冊)。特に昭和天皇の靖国神社参拝に関する発言を記述したと報道された部分を指す。昭和天皇が第二次世界大戦のA級戦犯の靖国神社への合祀に強い不快感を示したとされる内容が注目された。メモ全体の公刊や一般への公開はされていない。 == 内容 == 公開された富田メモの一部は以下の通りである。靖国神社についての発言は1988年4月28日(昭和天皇の誕生日の前日)のメモにあった。一連のメモは4枚あったとされ、そのうちの4枚目にあたる。 ※「易々と」の左側の位置から「そうですがが多い」「全く関係者も知らず」の2行が縦書きで書かれている。 メモは、「私は或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記している。松岡は日独伊三国同盟を締結し、A級戦犯で合祀されている元外務大臣の松岡洋右、白取はこれもA級戦犯で合祀されている元駐イタリア大使の白鳥敏夫、筑波は1966年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった靖国神社宮司の筑波藤麿とみられる。昭和天皇は、筑波宮司がA級戦犯合祀に慎重であったのに対し、筑波が退任後、A級戦犯が合祀されたことに懸念を表明し、その中でも松岡洋右と白鳥敏夫までもが合祀されたことに強い不快感を表明した。 メモは、さらに「松平の子の今の宮司がどう考えたのか」「松平は平和に強い考があったと思うのに」と記している。「松平」は終戦直後の最後の宮内相の松平慶民。「松平の子」は、慶民の長男で1978年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司・松平永芳とみられる。松平慶民は宮中に長く仕え、昭和天皇もその人物をよく知っていたが、その子供である松平永芳が、「易々と」合祀してしまったことに対して昭和天皇は「親の心子知らずと思っている」と、強い不快感を表明した。末尾には「だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と記述されている。 当初報道されたのは「私は或る時に…」以下の後半13行である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富田メモ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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