|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 富 : [とみ] 【名詞】 1. wealth 2. fortune ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 一 : [いち] 1. (num) one ・ 一色 : [いっしき, ひといろ] 1. (adj-na,n) one color 2. one colour 3. one article ・ 色 : [しきさい, いろ] 【名詞】 1. (1) colour 2. color 3. (2) sensuality 4. lust
富田一色(とみだいしき)は三重県四日市市北部の富洲原地区の3地区(富田一色地区・天ヶ須賀地区・松原地区)の1つ。 明治時代の近代化による市町村制度が導入される近世以前は朝明郡の富田六郷所属の富田一色村であった。その後は町村制の施行で富洲原の一部となり、朝明郡(三重郡)富洲原村大字富田一色(富田一色区(区長は生川平三郎))から→三重郡富洲原町大字富田一色(四日市市に合併した後は富田一色地区)となり、四日市市に合併した後の現在は四日市市北部の富洲原地区に所属している。四日市市の住所制度では地区名の富田一色から町名となった富田一色町全域・埋め立て地の富双2丁目・富州原町の一部(富田一色地区所属の甚五兵衛町自治会と四日市市立富洲原小学校の敷地)が富田一色地区の区域であり、富田一色地区連合自治会を構成している。 ==概要== 富田から分離した新開地が地名の由来である。東富田村の枝郷であった。富田一色港があり廻船業者が多く、八風街道が開通していて海上交通と陸上交通が発達していた。大正時代に東洋紡績が操業されて、工業品の運搬のために、富田一色港が手狭となり、1930年代(昭和一桁期)の昭和5年から昭和7年までの期間に塩役運河の改修が実施された。江戸時代の桑名藩領朝明郡富田六郷富田一色村の時代の町割りは以下であった。旭町・港町・北町・南町・堺町・中町・北條・南條・本町・寺町・八間家町・山ノ神町・大黒町・夷町・布袋町・弁天町・江戸町・豊富町があった。大正時代の三重郡富洲原町時代の町割りでは富田一色地区は以下の自治会となった。 富田一色地区の北部(北条と呼ばれていた) #旭町自治会 #港町自治会 #北町自治会 #七軒町自治会 #本町自治会 #中町自治会 #広小路町大通りの広小路自治会 富田一色地区の中部(中条と呼ばれていた) #寺町自治会 #新町自治会 #南町自治会 #堺町自治会 #八軒町自治会 富田一色地区の南部(南条と呼ばれていた) #蛭子町自治会 #大黒町自治会 #布袋町自治会 #弁天町自治会 #江戸町自治会 #豊富町第1区自治会 #豊富町第2区自治会 飛び地である四日市市富州原町に立地する #甚五兵衛町自治会 伊勢湾沿いの松ヶ浦海水浴場を埋め立てた #富双2丁目 *以下の20自治会と富双2丁目で構成される。 *各町名は江戸期と大正期に命名されて伊藤平治郎や生川平三郎や2代目平田佐次郎・平田佐矩親子など三重郡富洲原町の政治家が近代化のために自治会制度を創設した。 *富田一色の自治会名で縁起を担いだ自治会がある。 #蛭子町自治会は七福神の蛭子 #大黒町自治会は七福神の大黒 #布袋町自治会は七福神の布袋 #弁天町の弁天は七福神から由来する。 *松原地区から大字富田一色があった。富田一色地区出身の伊藤甚五兵衛が松原地区の土地を買収した。伊藤甚五兵衛からの人名で命名して富田一色甚五兵衛町として松原地区から富田一色地区に編入して、富洲原町(富田一色地区と天ヶ須賀地区と松原地区)の中心部である好条件の土地に1916年(大正5年)に四日市市立富洲原小学校を建設する。 郵便番号 *富田一色町 (510-8004) *富双 (510-8005) *富州原町甚五兵衛町自治会 (510-8016) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富田一色」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|