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富田 勝(とみた まさる、1946年10月11日 - 2015年5月26日)は、日本のプロ野球選手(内野手、外野手)、野球解説者、タレント、実業家。 == 来歴・人物 == 大阪府出身。興國高校では1964年夏の甲子園府予選準々決勝に進出するが、阿野鉱二、堀井和人のいた明星高に9回逆転負け。卒業後は法政大学経済学部に進学。東京六大学リーグでは在学中3度のリーグ優勝を経験。1968年の全日本大学野球選手権大会では、1年下のエース山中正竹の好投もあり、決勝で駒大を降し優勝。田淵幸一、山本浩司と共に「法政三羽ガラス」と呼ばれ、リーグ屈指の内野手として鳴らした。リーグ通算67試合出場、248打数75安打、打率.302、8本塁打、43打点。ベストナイン(三塁手)2回選出。 1969年ドラフト1位で南海ホークスに入団。1年目から75試合に出場。翌1970年はレギュラー三塁手に定着、23本塁打を放ち、規定打席にも到達(10位、打率.287)する。最終戦では四番打者で先発出場しており、その時の一番打者は、他の129試合は四番を打っている野村克也選手兼任監督であった。翌年は外野手も兼ねるが打撃面で伸び悩み、1972年のシーズン後半は故障もあって欠場が多かった。 同年オフに、衰えの目立つ長嶋茂雄の後継三塁手候補として、川上哲治監督からの強い要望があり、山内新一、松原明夫との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。1973年は土井正三や黒江透修の陰に隠れ、出場44試合にとどまる。しかし法大の1年後輩であるエース江本孟紀を擁する、古巣南海との日本シリーズでは、右手薬指を骨折した長嶋茂雄に代わり全5試合に三塁手として先発出場。16打数3安打1打点の成績ながら9連覇達成に貢献した。翌1974年は三塁手、二塁手として43試合に先発出場、打撃も復活し活躍する。 同年シーズンオフに歌手の白川奈美と結婚し、二児をもうけた(後に離婚している)。 1975年には、巨人の監督に就任した長嶋との不和や、成績不振などから出番が減り、同年オフ、張本勲との交換トレードで、高橋一三と共に日本ハムファイターズに移籍。最初の2年間はレギュラー三塁手、1978年に古屋英夫が三塁手に定着した後は、二塁手、外野手に回る。中心打者として活躍し、打率3割を2度記録した。1980年オフ、井上弘昭との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍。1981年は92試合に出場したが、翌1982年はレギュラー陣の好調や若手の台頭もあり出場機会がなく、同年限りで現役引退した。 ドラゴンズ時代の1981年8月26日(宇野ヘディング事件の当日、同い年で六大学野球時代からのライバル星野仙一が先発投手)、対巨人戦にて史上2人目の日本プロ野球全球団から本塁打を記録している。 引退後はテレビ東京、中京テレビで野球解説者を務める傍ら、『ビートたけしのスポーツ大将』(テレビ朝日)内で野球チーム「たけし軍」の助っ人として活躍するなど、タレントとしても活動していた。 その後球界から遠ざかり、大阪で警備会社を経営していた。 株式会社トップアカデミーは、年商1億円で100人近くの従業員を抱えており、大成功をおさめた。国際ロータリークラブ会員。2015年5月26日、肺がんのため大阪市の病院で逝去。68歳没。田淵幸一、山本浩二、星野仙一、元法政大学監督の松永怜一、南海OBの上田卓三と堀井和人、法政大学の1年後輩である江本孟紀と山中正竹、南海時代のコーチであり、二軍監督の鈴木孝雄、南海時代の同期生 市原稔、中日ドラゴンズスカウトの中原勇一、フィギュアスケート選手(当時)の小塚崇彦など球界関係者ら約200人が参列した〔 浩二氏、葬儀で富田氏に別れ…「向こうでも三羽ガラスで」 スポニチアネックス 2015年5月30日〕。法名は釋勝力。なお、遺骨は故人の意向で銀河ステージによる宇宙葬にされる予定という。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富田勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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