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富田 木歩(とみた もっぽ、1897年4月14日 - 1923年9月1日)は俳人。本名は一(はじめ)。東京市本所区新小梅町(現在の東京都墨田区向島一丁目)生まれ。最初の俳号は吟波、後に木歩と号す。誕生の翌年、高熱のため両足が麻痺し生涯歩行不能となる。俳号の木歩は、彼が歩きたい一心で自分で作った木の足に依る。富田木歩は歩行不能、肺結核、貧困、無学歴の四重苦に耐えて句作に励み、「大正俳壇の啄木」と言われ将来を嘱望されるが、関東大震災で焼死した。26歳の生涯であった。 ==富田木歩の生い立ち== 富田家は旧家で代々、向島小梅村近辺の大百姓だった。木歩の祖父は明治のはじめに向島に初めて芸妓屋を開いて花街の基礎を作った人で、言問にあった竹屋の渡しも所有していたが、その七男丑之助すなわち一の父親は、万事派手で博打好きで、分けてもらった財産のあらかたを無駄に使い尽くし、おまけに1889年(明治22年)の大火で屋号「富久」の本家も資産の大方が灰に帰すと、1897年(明治30年)ごろには丑之助一家は、小梅町の一角に鰻屋「大和田」をやっと開いているだけの貧乏所帯だった。 父丑之助、母み禰の次男として生まれた木歩の本名は一(はじめ)。一が生まれた時、既に長男の金太郎、2人の姉、長女富子と次女久子がいた。「次男を一(はじめ)と名付けたのは母の実兄、野口紋造に子供がないことと、口減らしの意味もあって妹の次男を養子に貰い受ける約束で、そう命名して産着を贈って祝った。名は一の字をハジメと呼ぶのだが、家の者はみな一(はじめ)をイチとして、イッチャンと呼ぶならわしになってしまった。」〔吉屋信子著「底のぬけた柄杓-憂愁の俳人たち-『墨堤に消ゆ』(富田木歩)」朝日新聞社、1979年6月、p35〕 木歩は、1歳の時に高熱を出して両足が麻痺してしまい、長じるに従がって、腰から下が目立って細くなり、特に膝から下は萎びた細い脛がだらりとぶら下がっているだけで、生涯歩けない体となってしまった。両足がきかなくなって、家の中を這いずるか、躄(いざ)っていたという。養子の約束は伯父の方から破約された。そして弟の三男利助が生れ、更に2人の妹、三女まき子、四女静子と兄弟は7人となり所帯はますます苦しくなった。その上、無情にも弟利助は聾唖者だった。 「母親のみ禰は無学の上に、酒と花札と不動明王詣を生き甲斐としている働きのない女だった。毎月、木歩を背負って富田家の菩提寺である向島最勝寺 (江戸川区)(さいしょうじ)の目黄(めぎ)不動尊へお詣りに通ってはくれても、小学校へ負ぶって通わせようなどとは思いつきもしなかった。」〔吉屋信子著「底のぬけた柄杓-憂愁の俳人たち-『墨堤に消ゆ』(富田木歩)」朝日新聞社、1979年6月、p.36〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富田木歩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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