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寒河江城 : ミニ英和和英辞書
寒河江城[さがえじょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かん]
 【名詞】 1. midwinter 2. cold season 3. coldest days of the year
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [こう, え, ごう]
 【名詞】 1. inlet 2. bay 
: [しろ]
 【名詞】 1. castle 

寒河江城 : ウィキペディア日本語版
寒河江城[さがえじょう]

寒河江城(さがえじょう)は、出羽国村山郡寒河江荘山形県寒河江市)にあった日本の城である。
== 概要 ==

=== 歴史 ===

現在の寒河江城のある地域(寒河江市丸内)に最初に館を建てたのは大江広元の嫡男大江親広だったとされる。親広は承久3年(1221年承久の乱において後鳥羽上皇の側に付き、敗れると寒河江荘に潜居したという。貞永元年(1232年御成敗式目が制定され鎌倉幕府の勘気が解かれると寒河江荘内楯(現寒河江市丸内)に館を建てたという〔ただし親広が楯や城を築いたという一次史料はない。(『寒河江市史 上巻』p.550)〕。
寒河江城を城として整備したのは寒河江大江氏として初めて寒河江氏を名乗った寒河江時氏とされる。築城年代は南北朝時代末期から室町時代初期にかけてであり、当初は方形単郭の平城であった。その後城の拡大に合わせて二の堰の開削が行われると二の丸・三の丸が築造され、天文3年(1534年)制作(天正4年(1576年)銘)『寒河江城古絵図』によれば三重の堀を持つ連郭式平城となった。この時の規模は、本丸:東西110m南北180m、二の丸:東西250m南北330m、三の丸:東西400m南北550mというもので、濠の内回りには土塁が築かれていた。濠幅は広いところで十二間あり、本丸には2つ・二の丸には3つ・三の丸には5つの門が存在した。さらに三の丸濠の東側と西側に川を巡らせ堀を補っている。二の丸・三の丸には重臣の屋敷を配し、二の丸の東北隅(鬼門)には祈祷寺として真言宗惣持寺を、三の丸東北隅には薬師堂を配置した。現在も残る七日町(寒河江市七日町)、十日市町(寒河江市南町十日市場)などは寒河江城を中心として城下町が形成された名残である。
永禄3年(1560年最上義守義光に攻められるが撃退する。最上氏の拡張戦略はこの敗北で一時頓挫することになる。しかし、天正2年(1574年)最上氏の内訌である天正最上の乱に巻き込まれた寒河江氏は、天童氏白鳥氏蔵増氏野辺沢氏、さらには同族の白岩氏溝延氏左沢氏により攻められ、本丸を残して攻め崩されてしまう。天正12年(1584年寒河江氏が最上氏によって滅ぼされると当初義光の直轄地であったが、文禄年間(1592年1596年)嫡男最上義康に与えられた。慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦では城主義康が伊達氏への救援要請や米沢からの上杉軍主力との対決のため留守にし、長崎中山氏が守るが庄内上杉軍によって攻め落とされる(『上泉泰綱九月十八日書状』)。一方、直江兼続別働隊が白鷹から八沼城を落とし左沢に進出した後、山野辺で本隊と合流している。9月29日関が原の敗報に触れた本隊は10月1日撤退を開始し、寒河江城の庄内勢も引き上げた(『最上義光十月朔日書状』)。その後慶長7年(1602年)頃から弟家親が城主となり、慶長14年~15年(1609年1610年)頃家親が山形城に移ると、旧寒河江氏家臣の寒河江肥前が2万7,000石で在城した。慶長19年(1614年)最上義光が病死し寒河江肥前が殉死すると最上氏蔵入り地となった(この後寒河江肥前は南館(山形市)7,000石となる(殉死した寒河江肥前の息子か))。元和]8年(1622年)に最上氏が改易になると鳥居氏の預かりとなるが元和9年(1623年)から翌寛永元年(1624年)にかけて本丸を残して堀を埋め、土塁を崩した〔この時廃城にされたと解される。〕。享保8年(1723年)の古地図(『寒河江本郷六ヶ村絵図』)には本丸の堀や土塁が描かれていることを確認することができる〔『寒河江市史 上巻』p.543-552〕。
現在は跡地の大部分が寒河江市立寒河江小学校および住宅地となっており、わずかに石碑と堀跡を残す。また、三の丸にあった辰巳門(東南方)が澄江寺〔澄江寺は寒河江氏13代(寒河江城6代城主)知広によって開基されたと伝わる。〕の山門として移築されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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