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寛文朱印状 : ミニ英和和英辞書
寛文朱印状[じょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
: [しゅ, あけ]
 【名詞】 1. (1) scarlet 2. red 3. (2) bloody 
朱印 : [しゅいん]
 【名詞】 1. red seal 
朱印状 : [しゅいんじょう]
 【名詞】 1. license with a red seal (licence) 2. shogunate license to trade (licence)
: [しるし, いん]
 【名詞】 1. (1) mark 2. (2) symbol 3. (3) evidence 
: [じょう]
  1. (n,n-suf) shape 

寛文朱印状 ( リダイレクト:寛文印知 ) : ウィキペディア日本語版
寛文印知[かんぶんいんち]
寛文印知(かんぶんいんち)は、寛文4年4月5日1664年4月30日)に江戸幕府日本全国の大名に対して一斉に領知判物領知朱印状領知目録を交付した法律。また、翌寛文5年(1665年)には、公家門跡寺社などに対しても同様の措置が取られ、江戸幕府の大名領知権と日本全国の土地支配権を名実ともに確立した。全国の大名・公家・寺社などが持っていた朱印状が一斉に回収・再交付されたため、これを特に寛文朱印改(かんぶんのしゅいんあらため)と呼び、これに基づいて交付された朱印状を特に「寛文朱印状」と呼ぶ。
== 概要 ==
従来は幕府から個々の領主に対して、領地判物・朱印状などの所領給付を示す文書を与えていたが、寛文4年3月7日に全国の大名に対して一旦これを返納することを命じた。続いて、4月5日付で全国の大名に対して同時に第4代将軍徳川家綱の名義によって同一書式の領知判物・朱印状・領知目録を交付したのである。なお、万石以上領地を有する大名として御朱印・目録留が交付されたのは合計219家に上るが、甲府徳川家及び館林徳川家徳川御三家は対象外であり、万石以上の大名であっても18の支藩には領地判物・朱印状が交付されなかった。また本藩・支藩論争で扱いがまとまらなかった伊予宇和島藩、伊予吉田藩の伊達両家には後日交付となった。
続いて、寛文5年3月1日に、公家・門跡・寺社に対しても同様の命令が出されて、同年の7月以後に順次新しい同一書式の領知判物・朱印状・領知目録を交付したのである。なお、公家と複数の徳川将軍から朱印状を受けた寺社及び50石以上の寺社領を持つ寺社に対しては個々に交付されたが、これに当てはまらない寺社については、所属する宗派本寺などに対して一括して朱印状などが与えられた。これによって公家97家、門跡寺院27、比丘尼(尼寺)27、院家12、その他寺院1076、神社365、その他7に対して交付が行われた。
寺領・社領の安堵と同時に日本全国の全ての寺院・僧侶を対象とする諸宗寺院法度、全ての神社・神職を対象とする諸社禰宜神主法度を制定して、寺院・神社それぞれに対して一元的な統制を行った〔高埜利彦『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年 ISBN 978-4-642-03461-6 P394-397〕。
領知目録には、徳川将軍家が所領として与えた具体的な郡村の名称とその石高について明記され、領主の領有する具体的な範囲が確定された。また、江戸幕府による領知判物・朱印状・領知目録の書式と書札礼は以後これを定型とした。
実際に奉行としてこれを行ったのは、大名領担当は小笠原長矩永井尚庸公家領担当は稲葉正則寺社領担当は井上正利加々爪直澄、符案及び訂正は久保正之右筆支配)であった。一連の交付によって発給された領知判物・朱印状・領知目録の総数は1830通に及ぶ。後にこれらの内容は『寛文印知集』(『寛文印知留』など諸本によって名称は異なる)と呼ばれた記録集にまとめられた。これは作成年代・編者は不明であるが、江戸幕府の全国統治の基本資料として、多くの写本・異本が作成されている。また、これによって同時期の全国の大名の配置と石高がほぼ把握出来るために、日本史教科書などでは、これに基づいて作成された大名の配置図が採用されることが多い。
寛文印知を受けた寺社は1507箇所に及ぶが、日光山東照宮・大献院廟領1万3630石8斗6升9合、久能山東照宮領3000石など、主要な寺社が漏れていた。また50石以下の小寺社への頒布も実施されなかった。ただし3代将軍の徳川家光の時は、慶安元年(1648年)3月17日から慶安2年(1649年)11月29日にかけて、寺社への追加の朱印状約3150通の発給を実施しており、徳川家綱も遅れて寺社への頒布を実施する予定があった可能性がある。〔 また家光の時までは万石未満の旗本の一部にも朱印状による領知安堵が行われていたが、家綱による寛文印知以降は旗本への領知安堵は黒印状に統一された。
貞享元年(1684年)に徳川綱吉が将軍職を継ぐと、寛文印知の対象外であった小規模寺社を含めて朱印状などの再交付(継目安堵)を行い、大名229通、公家107通、寺社4535通、集物7通、合計4878通が交付された。印知の対象となった寺社は寛文印知の時に比べて3倍以上に増えた。貞享印知の状況は国立公文書館所蔵「貞享御判物御朱印改記」にまとまっており、『寛文朱印留』と同種の本が貞享印知でも作成されたことが判るが、詳細な写本は現存しない。
第6代将軍の徳川家宣は、大名への判物・朱印状230通の発給を行い、また寺社・旗本への印知実施のための御触書を出したが、寺社・旗本への印知を実施する前に死去しており、旗本への朱印状の発給は復活しなかった。次の徳川家継も早世したため、判物・朱印状発給の準備も行われなかった。第8代将軍の徳川吉宗以後将軍の交替ごとに同じように継目安堵が行われる事となった。
第14代将軍の徳川家茂は公家領の印知を行わず、寺社領の印知も東海・関東・陸奥の寺社に留まった。最後の将軍の徳川慶喜は一切の印知を行わなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「寛文印知」の詳細全文を読む




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