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寛文近江・若狭地震 : ミニ英和和英辞書
寛文近江・若狭地震[かんぶんおうみ わかさじしん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
: [こう, え, ごう]
 【名詞】 1. inlet 2. bay 
: [ち]
  1. (n,n-suf) earth 
地震 : [じしん]
 【名詞】 1. earthquake 

寛文近江・若狭地震 : ウィキペディア日本語版
寛文近江・若狭地震[かんぶんおうみ わかさじしん]

寛文近江・若狭地震(かんぶんおうみ・わかさじしん)は江戸時代前期の寛文2年5月1日1662年6月16日)に近畿地方北部を中心に発生した大地震で、2つの地震が連続して発生した地震と考えられている。〔若狭湾沿岸の日向(ひるが)断層の活動で小浜や三方五湖(みかたごこ)周辺地域の被害と琵琶湖西岸の花折(はなおり)断層北部の活動で葛川谷や琵琶湖沿岸地域の被害の二つ地震〕〔知野泰明「近世の災害」/北原糸子編著『日本災害史』吉川弘文館 2006年)〕。
本地震は近江国若狭国において地震動が特に強く甚大な被害が発生したが、震源域に近く、当時約41万人の人口を有し依然として国内第二の大都市であった京都において特に被害は甚大であった〔 西山昭仁, 小松原琢(2006): 寛文二年(1662)近江・若狭地震における京都盆地での被害状況,歴史地震, No.21, pp165-171.〕。京都の被害状況から寛文京都地震、従来、震源域が琵琶湖西岸付近であるとする考えがあったことから、琵琶湖西岸地震と呼ばれることもある。
== 地震の記録 ==
寛文二年五月一日下刻-上刻(1662年6月16日10-12時頃)、近江・若狭を中心に激しい揺れに襲われた。この日は大雨で、京都の地震動も強く『基煕公記』の宝永地震の記録において「昔卅六年己前(数え年)五月一日、有大地震、有大地震事、其時之地震ノ五分ノ一也」とあり、宝永地震の京都における揺れは振動が長くとも破損を生じる程で建物が倒壊する程では無かったものの、京都では宝永地震でさえ寛文地震の揺れの五分の一程度の強さであったことになる。
『殿中日記』には京都において二条城の御番衆小屋などが悉く破損、町屋が千軒余潰れ、死人200人余、伏見城も各所で破損したとある。
また同日記には、近江では、佐和山(現・彦根市)でがゆがみ石垣が5、6百間崩れ、家千軒余潰れ、死人30人余、大溝(現・高島市)では家1,022軒潰れ、死人38人、牛馬も多く死に、朽木谷(現・高島市)は特に激しい地震動に見舞われ家が潰れ出火により辺りが残らず焼失したと記されている。膳所や大津(現・大津市)も被害が多く、水口城でも門、塀、御殿が破損した。
『落穂雑談一言集』には伏見で町屋320軒余倒壊、死人4人、近江志賀、辛崎(現・大津市)では田畑85余がゆり込み、並家1,570軒が倒壊したとある。
『元延実録』には愛宕神社岩清水八幡宮が大いに破損、知恩院祇園も大方破損したとある。『厳有院実紀』によれば二条城は各所が破損したが禁裡院は無事である旨、また丹波亀山城篠山城、摂津尼崎城、近江膳所城、若狭小浜城は崩れ、朽木谷では朽木兵部少輔入道宣綱が圧死したとある〔文部省震災予防評議会 『大日本地震史料 増訂』 1940年〕。
当時の被害の様子や余震を恐れる人々など当時の状況を詳しく記録した読み物として売り出された浅井了意の『かなめいし』(寛文2年8月から同年末までに成立)が、災害の社会像を伝える最初の資料地震誌である。上巻は京都での実況見分的に描写、中巻は京都以外の地震の災害の概要、下巻は日本地震の先例をあげる。〔知野泰明「近世の災害」/ 北原糸子編著 『日本災害史』 吉川弘文館 2006年 232-238ページ〕。
方広寺大仏1596年慶長伏見地震で倒壊するなど度々災難に見舞われ、1612年に再建された大仏は本地震でも破損し、その地金は寛文8年5月(1668年6月頃)から鋳造が始まった寛永通寳文銭の材料の一部にもなったという〔三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年〕。
強震は近江、若狭に加えて、山城大和河内和泉摂津丹波美濃伊勢駿河三河信濃と広範囲におよび、比良岳付近で顕著であった。『慶延略紀』によれば二条城や大坂城では破損するほどの揺れであり、江戸でも小震であったといい〔、福山でも有感、『殿中日記』には「長崎表も地震之由」とある。被害の全体では死者880余、潰家約4,500とされる〔。

マグニチュード河角廣により''M''K = 5.5として ''M'' = 7.6 (''M'' = 4.85 + 0.5 ''M''K)と推定され〔Kawasumi(1951) 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値,東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482.〕、7 1/4 - 7.6〔、あるいは7.4〔宇佐美(2003)の値の中間値を四捨五入。(『地震の事典』)〕、''M'' 7.5あるいはそれより上〔宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年〕とも推定されているが、地震計の記録のない歴史地震であるためその数値は不確定性を含む。
『続史愚抄』には「此後連々昼夜揺動、至七月云」とあり、また余震と思われる地震は12月まで記録されているという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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