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審 配(しん ぱい、? - 204年)は、中国後漢時代末期の武将。字は正南〔『先賢行状』〕。冀州魏郡陰安県の人〔「太尉陳球碑」〕。甥(兄の子)は審栄。 == 略歴 == === 袁氏の佞臣 === 袁紹に仕えた。若いころより忠烈なる慷慨の士との評判高く、犯し難い節義を持っていたという。そのことから袁紹に信頼され、治中や別駕に任命されると同時に、大将軍府を総理した。 建安4年(199年)、対曹操の戦略方針をめぐって、郭図と共に短期決戦戦略を主張し、持久戦略を主張する沮授・田豊と対立した。この論争で、袁紹は審配らを支持している。しかし、この戦略に沿って起きた建安5年(200年)の官渡の戦いでは、袁紹軍の敗北に終わり、審配は2人の子を曹操に捕らえられた。なお、この戦いの前に法律違反を理由として許攸の家族を収監している。しかしこれが原因で、許攸は官渡の戦いの際に曹操の下へ出奔し、袁紹を敗北に導いた。 その後、普段から審配と仲が悪かった孟岱と蒋奇が審配を讒言すると、郭図と辛評もこれに同調した。このため孟岱が監軍に任命され、審配に代わって鄴を守備することになった。この時、普段から仲が悪かった同僚の逢紀が審配を懸命に弁護したため、審配は窮地を逃れることができたという。一時的に逢紀と親しい間柄になっている(審配の文書等から判断すると、両者は後に再び仲違いしている)。 建安7年(202年)に袁紹が病没すると、袁紹が寵愛した三男袁尚を逢紀と共に擁立し、袁尚の兄袁譚を擁立する郭図・辛評らと対立した。これは袁紹が死去するまでに後継者を指定しなかったためである。『後漢書』袁紹伝によれば、衆目は年長の袁譚を支持していた。それにもかかわらず、同列伝によると審配らは袁紹の遺命を偽造してまで、袁尚の後継を強行したとされる。袁譚と袁尚は後に対立を深め、武力衝突を繰り返すようになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「審配」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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