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寺下隆浩 : ミニ英和和英辞書
寺下隆浩[てら]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [した, もと]
 (adv) under (esp. influence or guidance)

寺下隆浩 ( リダイレクト:丹蔵隆浩 ) : ウィキペディア日本語版
丹蔵隆浩[たんぞう たかひろ]

丹蔵 隆浩(たんぞう たかひろ、1984年5月5日 - )は、石川県鳳珠郡能登町出身で阿武松部屋所属だった元大相撲力士。本名は寺下 隆浩(てらした たかひろ)。現役時代の体格は、身長189cm、体重151kg。最高位は西十両6枚目(2013年3月場所)。好物は魚介類。
==人物==
小学生を卒業するころには身長170cm台後半、体重約100kgという恵まれた巨体を持っており、幼少よりこの巨体を活かして相撲で活躍していた。〔NHK大相撲中継9月場所4日目 2012年9月12日
: この場所怪我で途中休場した同部屋の新十両である慶天海の代役〕能登町立能都中学校金沢市立工業から東洋大を経て、2007年阿武松部屋に入門(玉大輝能登東は高校の後輩で同期入門)。3月場所に初土俵を踏み一番出世を果たす。東洋大学相撲部の9学年先輩となる玉光国の証言によると入門時にわざわざ挨拶に来てくれたことが印象に残っているといい、謙虚で人柄が良いとも伝えられている。そんな玉光国からは常に応援されており「前に出る取り口ですぐに関取になると思った」と素質も評価されていた。〔寺下改め丹蔵関の話 元玉光国(玉ノ国)の毎日楽しくGOーGOーブログ 2012-08-15 03:48:42
〕番付に初めて名前が載った5月場所序ノ口で7戦全勝とし、序ノ口優勝を果たした。11月場所では首を痛め初の途中休場(0勝2敗5休)となった。
2008年1月場所7戦全勝で勝龍(八角部屋)との優勝決定戦を制し三段目優勝を飾ったが、9月場所で、4戦全勝で迎えた9日目に初黒星を喫するとともに右足靭帯断裂の大怪我を負い途中休場となった(4勝2敗1休)。この怪我の治療のため11月場所より休場となり、11月26日には手術を行った。治療には1年程度必要と見られていた。
2009年序ノ口西28枚目で迎えた9月場所13日目にて1年ぶりの復帰を果たし1勝6休で場所を終え11月場所では全勝で2回目の序ノ口優勝を果たした。翌2010年序二段西20枚目で迎えた1月場所も7戦全勝で終え、優勝決定戦まで残ったが、優勝は果たせなかった。5月場所で1年半ぶりに幕下復帰を果たした。
2012年5月場所では東幕下16枚目で7戦全勝優勝を果たし、翌7月場所は関取昇進を狙える東幕下2枚目であったが、この場所を5勝2敗とし、場所後に9月場所での新十両昇進が決定した。同部屋の弟弟子である慶天海も自身と共に新十両に昇進しており、同部屋から同時に新十両への昇進を果たすのは2010年3月場所での同じ阿武松部屋(大道と益荒海)以来のこととなった。〔阿武松部屋からW十両昇進 nikkansports.com 2012年7月25日18時7分〕
新十両昇進と同時にそれまで本名のままであった四股名を「丹蔵」と改めた。丹蔵は祖父の代まで漁師であった寺下家の屋号であり、現在でも丹蔵の故郷では苗字の代わりに屋号を呼称に使う風習が少なからず残っている。同じ能登町出身の1学年後輩で同部屋の能登櫻は地元在住時代より「丹蔵さん」と呼んでいたという〔寺下改め「丹蔵」新十両昇進…番付編成会議 スポーツ報知 2012年7月26日〕〔同姓の世帯が密集している地域では屋号を呼称として使用する必要に追われる場合がある。〕。引退後に母校の能登中学校で行った講演では大怪我で一年間休場してから十両昇進を果たすまでの心境の変化を語っており、阿武松の連日の説教を受けて思いやってくれるありがたさに気付いたという。〔逆境の相撲人生語る 元丹蔵・寺下さん母校で講演 中日新聞 2014年7月9日〕
新十両の9月場所は、9日目まで7勝2敗で優勝争いの先頭にも一時は立っていたが、10日目から5連敗で7勝7敗となった。しかし千秋楽の玉鷲戦に勝って勝ち越しを決めた。翌11月場所は7勝8敗と負け越したが、2013年1月場所を9勝6敗と勝ち越し、3月場所は自己最高位の西十両6枚目まで番付をあげた。しかしその後は勝ち越すことができず番付を下げ、同年9月場所は東十両12枚目での6勝9敗を喫したにもかかわらず翌場所の11月場所はわずか1枚半減の西十両13枚目の地位に踏み留まった〔因みに『相撲』2013年11月号12頁では、場所後の10月20日に同じ石川県御当地力士として遠藤に帯同する形で金沢巡業に出場していた様子が伝えられた。〕が、この場所でも6勝9敗の負け越しに甘んじ、8場所務めた関取の地位を去ることとなった。
2014年1月場所を東幕下筆頭の地位で迎えるも、3番相撲まで黒星続きだったことが祟って6番相撲で負け越しを確定させてしまい場所を3勝4敗で終える。翌3月場所も負け越すと、5月場所は初日から休場し、10日目に引退を発表した〔引退力士情報 日本相撲協会〕。肩の手術をして現役続行を図るかどうか迷っていたが「気持ちが切れた。情けない相撲しか取れなくて歯がゆかった」と引退を決断したという。〔元十両丹蔵が引退 DAILY SPORTS ONLINE 2014年5月20日〕同月31日に断髪式を千葉市内のホテルで開き、貴乃花錣山大嶽放駒ら130人が鋏を入れ、止め鋏は師匠が入れた。今後は怪我に苦しんだ経験を生かして柔道整復師の資格取得を目指す方針。〔「幸せな相撲人生」 元丹蔵が引退報告 読売新聞 2014年06月15日〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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