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寺内 寿太郎(てらうち じゅたろう 1900年? - 没年不明)は昭和初期の詩人。川柳にも才能を発揮。当時流行の探偵小説にも凝ったことがある。 評論家山岸外史のいとこ。幼時に父を日露戦争で亡くし、親戚の間を転々として育つ。伯父の世話で慶應義塾大学理財科(現在の経済学部)を卒業して会社勤めをしていたが、不遇を託ち、家出すること数回。伊豆の天城山の奥深く分け入り、自殺を企てたこともあるが、10日間消息を絶った後、親戚に発見されて連れ戻された。尚、慶大時代は競走部(陸上部に相当)に所属し、箱根駅伝にも3回(1920年〈第1回大会でもある〔1区を走った。即ち、慶大の選手で最初に箱根駅伝で走った人物でもある。〕。区間4位〔最下位〕〉,1922年〈10区。区間記録不明〔完走しているが記録が散佚〕〉,1923年〈10区。区間7位〔9チーム中〕〉)出場した〔選手詳細情報・寺内寿太郎 箱根駅伝公式サイト〕。 たびたび職業を変え、都落ちをしてからは岩手県宮古で4年間、町会(あるいは漁業組合だったとも言われる)で書記として生計を立てていた。 極端な寡作家ながら、宮古時代に「遺書」(かきおき)と題する一行詩(「生れてすみません」)を含む7〜8作の詩稿を完成して帰京。この「遺書」の詩稿は1936年(昭和11年)、山岸を通じて太宰治の目にとまり、太宰の短篇「二十世紀旗手」の冒頭において、エピグラフ「生れて、すみません。」として剽窃されるに至った。 もともと寺内は早い時期から太宰の読者だったが、1937年(昭和12年)頃、この「二十世紀旗手」を読んで山岸のもとに駆けつけるなり、顔面蒼白となって「生命を盗られたようなものなんだ」「駄目にされた。駄目にされた」と叫び、途方に暮れたという。山岸からこのことを伝えられた太宰は、「あの句は山岸君のかと錯覚するようになっていたのですよ」「わるいことをしたな」と狼狽した。 この後、寺内は文学に挫折し、憂鬱症に陥り、家出を繰り返し、やがて失踪してしまった。敗戦後まもなく、品川駅で目撃されたのが最後の姿だった。 寺内はまた、佐藤春夫の小説「芥川賞-憤怒こそ愛の極点(太宰治)」(『改造』1936年11月、のち「或る文学青年像」と改題)に寺内清の名で登場している。 ==脚注== 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寺内寿太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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