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寺坂 信行(てらさか のぶゆき、寛文5年(1665年) - 延享4年10月6日(1747年11月8日))は、江戸時代前期の人物。赤穂浪士四十七士の一人。通称は吉右衛門(きちえもん)。のち麻布山内家の家臣。 == 生涯 == 寛文5年(1665年)、赤穂藩浅野家家臣で船方役人・寺坂吉左衛門の子として赤穂若狭野に生まれた。母は川端与右衛門女。 寛文12年(1672年)、8歳の時に吉田兼亮の家で奉公のうえ世話になるようになった。元禄4年(1691年)、兼亮が加東郡郡代となった際に赤穂藩の足軽(浅野長矩直臣)とされた。赤穂藩内では兼亮の組下で3両2分2人扶持を支給された。またこの年に浅野家小役人下村長次郎の娘と結婚している。また、元禄7年(1694年)には吉田兼亮の娘が伊藤治興(姫路藩士)に嫁ぎ、翌年には2人は長男伊藤治行を儲けたが、この介抱を寺坂夫婦が任されている。 元禄14年3月14日(1701年4月21日)、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んで切腹し、赤穂藩は改易となったが、この際に寺坂は兼亮とともに加東郡におり、ともに赤穂城へ駆け付けた。赤穂城明け渡しを前に家老・大石良雄が同志と血判の義盟を交わしたが、この義盟に足軽の身分の寺坂は加わっていない。その後、上司の吉田兼亮が播州三木(現:兵庫県三木市)へ退くとこれに従う。寺坂は同志に加えて貰えるよう強く願い、大石良雄は最初は寺坂の身分を考えて躊躇したが、その熱意にほだされて義盟に加えた。寺坂は吉田兼亮に付き従い、足軽の身分ながら同志との会合にも出席している。 元禄15年12月14日(1703年1月30日)の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属していた。しかし、討ち入り後に赤穂浪士一行が泉岳寺へ引き上げたときには寺坂の姿はなかった。討ち入り直前に逃亡したという説、討ち入り後に大石良雄から密命を受けて一行から離れたという説、足軽の身分の者が討ち入りに加わっていることを大石が公儀に憚りがあるとして逃したという説があるが、真相は不明である。『忠臣蔵』の物語では討ち入りの様子について、浅野家のゆかりの者へ伝えるよう大石から命を受けて瑤泉院や広島に蟄居していた浅野長広の元へ行ったように描かれ、吉田兼亮が寺坂を「不届き者」呼ばわりしたのは、公儀に追手を出されない為の配慮であったなどという描写も見られる。 討ち入り後の寺坂には、大目付仙石久尚の決定により一切の追手はかからなかった。そのまま吉田兼亮の娘婿の伊藤治興に奉公している。伊豆大島に遠島に処された兼亮の遺児吉田兼直にも忠義を尽くしている。遠島の際の見送り、赦免後の出迎え、伊藤家までの護送、すべて寺坂が行っている。その後、仙石久尚の元に出頭したと言われるが、久尚は一切罪を問わず、逆に金子を与えて送り出した。 しかしその後伊藤家を離れたようで享保8年(1723年)3月頃には江戸麻布の曹渓寺で寺男をつとめている。さらに同年6月頃には曹渓寺の口利きで、土佐藩主山内家の分家麻布山内家の第3代山内豊清(主膳)に仕えて士籍を得た〔『土佐史壇』青木義正著、第2号(大正7年)による。〕。このときに今日にまで残る寺坂の「親類書」が提出されたという。 延享4年(1747年)に病死。曹渓寺に葬られる。戒名は節岩了貞信士。享年83。後年、慶応年間に入ってから泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられており、ここでの戒名は、遂道退身信士となっている。 映画・ドラマなどフィクションでは大石良雄の従者として描かれる事が多い。また、柴田錬三郎の小説『裏返し忠臣蔵』などでは寺坂を忍びの者として描かれており、必殺仕事人のスペシャル版である『必殺忠臣蔵』では寺坂は仕事人であったとしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寺坂信行」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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