|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 寺 : [てら] 【名詞】 1. temple ・ 島 : [しま] 【名詞】 1. island ・ 宗 : [そう, しゅう] 【名詞】 1. sect ・ 伴 : [とも] 1. (n,vs) companion 2. follower
寺島 宗伴(てらしま そうはん、1794年(寛政6年) - 1884年(明治17年)2月2日)は江戸時代・明治時代の和算家。通称は数右衛門。号は北明。 == 生涯 == 信濃国水内郡鬼無里村(現在の長野県長野市鬼無里)に生まれる。叔父である寺島半右衛門陳玄に師事して宮城流(京の宮城清行が流祖)和算を学び、1816年(文化13年)に免状を得る〔長野市「鬼無里歴史の旅 〕。 松代城下に出ると、町田源左衛門正記から最上流和算を学び、1827年(文政10年)に免状を取得。当時の最上流は、主流だった関流に論争を挑んで注目を集め、最盛期を迎えていた〔。 鬼無里を中心に信濃を遊歴し、500人以上の鬼無里村民を含めて、信濃から越後にかけて800人を超える門弟を持った〔門弟集には919人の門弟の名がされている。谷の京物語,ふるさと草子刊行会,1987による。なお、松厳寺境内の五輪塔そばに設けられた長野県教育委員会の説明書きには信濃国内外に4000人の門弟がいたと記されている。〕。和算以外にも折方、家相、挿花、規矩術、そろばんも教えた。〔和算家北明寺島宗伴「第二部 和算家 寺島宗伴」,ふるさと草子刊行会,2005 - 電子復刻版〕 明治17年に90歳で没した。 鬼無里の松厳寺に奉納算額が残されている。境内には辞世の句を刻んだ五輪塔も残る。鬼無里ふるさと資料館に遺品や著作が展示されている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寺島宗伴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|