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寺沢 広高(てらざわ ひろたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。肥前唐津藩の初代藩主。 == 生涯 == 尾張の生まれ〔楠戸義昭『戦国武将名言録』P118〕。はじめ、父・広政と共に豊臣秀吉に仕えた。 文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵に際しては肥前名護屋城の普請を務め、出征諸将や九州大名への取次を担当し、長崎奉行にまで出世した。奉行時代の1594年にキリシタンに改宗したが、1597年の日本二十六聖人処刑を契機に棄教。貿易統制から朝鮮に出兵した日本軍の補給や兵力輸送の任を務めた。小西行長と共にいわゆる武断派から憎まれた。 秀吉死後は徳川家康に近づき、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。戦後に関ヶ原の戦功によって天草4万石を加増された。 豊臣政権の時代、九州取次であった。豊臣政権の公儀権力が徳川に移ってからは「秀吉の取次」から「家康の取次」として公的地位を新たにした〔宮本義己「内府(家康)の公儀掌握と関ヶ原合戦」(『大日光』76号、2006年)〕。関ヶ原の戦い以降も実権を握った家康と西軍だった島津氏との戦後処理の交渉を仲介するなどしたが、時と共に取次の役割は家康の家臣に委ねられた結果、権力を失った。 唐津城を築城し、天草の飛び地を含めると12万3千石を領する大名となり、天草領を治めるために富岡城を築くなどし、城代・代官を派遣して統治した。唐津や天草の土着豪族を弾圧したが、その結果、唐津は安定し繁栄した。他方、当初はキリシタンの弾圧を公然とは行っていなかったが、1614年の禁教令以後、厳しく棄教を迫るようになり、晩年には拷問の手法を取るようになった。 寛永10年(1633年)死去、享年71。墓所は唐津市鏡の鏡神社境内にある。墓所は地元では志摩様(しまさま)として慕われ、毎年春、桜の花見の時期に小宴が催されてきた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寺沢広高」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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