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寺越 武志(てらこし たけし、1950年 - )は、日系朝鮮人男性。北朝鮮で金 英浩(キム・ヨンホ)という名前で生活している。寺越武志を含む3人が沖へ漁に出たまま行方不明になり、後に北朝鮮で生存していた事実が確認された事件を寺越事件という〔『寺越事件から”拉致”を問いなおす』 日本ブルーリボンの会 2013年5月閲覧〕。 == 概要 == 1963年5月11日、13歳の中学生であった寺越は、叔父の寺越昭二(当時36歳)、寺越外雄(当時24歳)と能登半島沖へ漁に出たまま行方不明になる。翌日に沖合い7kmを漁船だけが漂流しているのを発見された。漁船には他の船に衝突されてできたような損傷があり、塗料も付着していた。海上保安庁や地元漁協の捜索にもかかわらず、その後の消息がつかめず戸籍上「死亡」扱いにされたが、1987年1月22日に寺越外雄からの手紙によって北朝鮮での生存が判明した〔このため外雄の兄の文雄が海上保安庁に死亡認定の取り消しを求め、2010年5月13日に戸籍回復が決定した。後述の通り1994年に死亡したとされており、2010年の時点で死亡していることに変わりはないが、「遭難死」扱いとなっていたため、これが取り消された。〕。 その後武志の父で昭二・外雄の兄の寺越太左エ門(1921年生まれ)と武志の母寺越友枝(1931年生まれ)は北朝鮮に渡り外雄・武志と再会。1997年7月1日、武志は金沢市を本籍として戸籍を回復した。以後友枝は彼に会うために数ヶ月に1度の割合で訪朝するようになる。一方太左エ門は2001年7月に訪朝した際そのまま北朝鮮に留まり、武志一家と平壌市内で生活した。 寺越はこの行方不明について、「自分は拉致されたのではなく、北朝鮮の漁船に助けられた」と話し、拉致疑惑を否定している。そのため、日本政府が認定する「拉致被害者」には含まれない。 2011年現在、朝鮮労働党員。平壌市職業総同盟副委員長。 2002年10月3日に、朝鮮労働党員及び労働団体の代表団の副団長として来日し、石川県の生家にも宿泊した。この来日は拉致被害者5人が帰国する12日前であったが、日本政府と与党(自民党と公明党)関係者の出迎えはなかった。帰国が近づいた頃、母親が「お前は日本人なんだから日本のパスポートを持つべき」と問いかけたところ、「私は(朝鮮民主主義人民)共和国の人間です。金正日将軍様の配慮で何不自由なく暮らしています」と話し、日本のパスポート所持を拒否した。 一緒に行方不明になった寺越昭二は1968年に清津で死亡(昭二の死亡については「船上で銃撃されて死亡した」とする説と、「清津のベッドで酒盛りをした翌日、ベッドから転落して死んでいた」という2つの説がある)、寺越外雄は1994年に亀城で死亡している。また太左エ門は2008年1月12日、平壌市の武志宅にて86歳で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寺越武志」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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