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対外認識 : ミニ英和和英辞書
対外認識[たいがい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つい]
 【名詞】 1. pair 2. couple 3. set 
対外 : [たいがい]
 【名詞】 1. external 2. foreign 
: [そと, ほか, げ, がい]
 【名詞】 1. other place 2. the rest 
認識 : [にんしき]
  1. (n,vs) recognition 2. cognizance 3. cognisance 

対外認識 ( リダイレクト:国際認識 ) : ウィキペディア日本語版
国際認識[こくさいにんしき]
国際認識(こくさいにんしき)とは、自己の所属する国家と他の国家の違いを理解しようとすること、またはその理解。
== 概要 ==

=== 境界の成立 ===
自分および自分が属する集団と他の集団を区別することは自己のアイデンティティを確立する上で重要であるが、それは世界の中における自分が所属する国家と他の国家の区別においても同様である。今日のような国家観・国際認識成立の前提として主権国家概念の確立が必要であるが、勿論、それ以前にもより漠然とした形であった自分の国家と他の国家の間の違いはその境界の存在は意識されていた。
古代の都市国家は城壁と城門を構えて都市の内側と外側を区別していたが、城壁外部にも領域を持っていた。ただし、外側については排他的な境界意識を必ずしも持ち合わせてはいなかった。これは古代ギリシア古代中国など地域の違いを問わずにそうした傾向が強く見られた。
やがて、「帝国」が形成されるようになると、支配の内実として空間領域の観念が付与されるようになる。その象徴してリメス(limes)と呼ばれる帝国の内と外の空間を隔てる城壁が築かれるようになる。ローマ帝国ハドリアヌスの壁秦帝国万里の長城はその典型例である。
中世においては、ヨーロッパにおいては封建国家が成立すると領域の概念が強く意識されるようになるが、その反面領域は領主個人あるいは領主家の家産と見なされ、領主家の交替に伴う領主の変動も多くそれに伴う境界線の変更もしばしば発生した。16世紀以後の絶対王政期に入ると領主あるいは領主家による領域の属人性が否定され、領域の属地性が重要視されるようになる。フランスルイ14世は「自然国境論」を唱えてフランスの東(ドイツ)との境界をライン川、南(スペイン)との境界をピレネー山脈であると主張してドイツを支配する神聖ローマ帝国オーストリア)と激しく対立した。更に大航海時代の進展とともに地球が球体であることが確認され、様々な国家が大なり小なり一定の範囲を占めていることが明らかになるとともに、(あくまでヨーロッパ人の観念において)地球上にはまだ分割できる地域が存在することが知られるようになった。ヨーロッパの地図に国境線が描かれるようになるのはこの時代のことである。三十年戦争後の1648年に締結されたヴェストファーレン条約によって、主権国家の概念が確立され、領域の属地性がほぼ揺るがないものとなった。アジアにおいては中国において秦帝国を継承した中国歴代王朝(中華帝国)が周辺諸国を服属させる代わりに領域に関する政治的保証と貿易に関する経済的保証を与えるという冊封体制を確立させ、朝貢貿易と一体化して機能していった。日本は古代及び室町時代の一時期を除いて中国より冊封を受けることはなかったが、遣隋使遣唐使遣明使などを度々派遣しており、服属国に準じた国とみなされる場合があった。だが、同じアジアの国々同士の関係になると複雑になる。すなわち、中国は冊封を受けていた朝鮮や琉球を服属国とし、日本もこれに準じた存在とみなしていた。朝鮮は事大主義の観点から中国を上位とする一方、日本や琉球は同格の国とみなして対等視していた。日本はあくまでも中国とは対等とする立場を採り、朝鮮は指導者層では三韓征伐以来の服属国とみなす風潮がある一方で民間ではやや異なる観念があり、国境に近い西国では実際に発生した元寇などのイメージと重なってムクリコクリの伝説として恐怖感をもって語られる一方、その他の地域では関心が希薄であった。また、琉球については同文同種の国とみなされていた。こうしたそれぞれの感覚の違いが外交交渉における思わぬ齟齬を引き起こすことになる。
一方、海上の境界に関してはヨーロッパとアジアで大きな違いが見られた。大航海時代とともに海上に国境を設けるか否かと言う問題が浮上した。1494年トルデシリャス条約は、ローマ教皇の権威の元で世界の海をスペイン・ポルトガルで分割することを定めたが、イングランドイギリス)・フランスなどの反発は強く、「海洋自由論」が台頭した。17世紀に入ると領土沿岸を除いて原則的には海洋を公海として扱う海洋法国際法が確立され、後にはライン川やドナウ川などの国際河川にも適用が拡大された。これに対してアジアでは中国や朝鮮、日本が相次いで海禁政策(日本では鎖国)を採用して、海岸線を境界線として航海・貿易を制限もしく禁止する方針を採った。
だが、19世紀に入ると、ヨーロッパ諸国によるアジア・アフリカ地域の分割が進行して複数の植民地帝国が確立される。分割を免れた中国や日本も国際法(万国公法)の受け入れて主権国家への転換を図ることになり、日清戦争における日本の勝利によって冊封体制は完全に終焉する。20世紀に入ると、世界恐慌をきっかけとしたファシズムの台頭やブロック経済圏の形成などの植民地帝国強化の動きが見られるが、一方でアジア・アフリカ地域における民族自決の動きもみられ、第二次世界大戦後に植民地帝国は解体される。だが、それは新たな国境線を巡る新興国同士の争いを引き起こした。更にメディアの急激な発達は電波やインターネットによる情報の伝播を加速させた。そして、21世紀に入るとグローバリゼーションの進展やEU統合などの国家連合の形成が進む一方で、各地でナショナリズムが台頭するなど複雑な動きを見せている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「国際認識」の詳細全文を読む




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