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封孝琰(ほう こうえん、523年 - 573年)は、北斉の官僚。封隆之・封延之の弟。字は士光。本貫は渤海郡蓨県。 == 経歴 == 封回の子として生まれた。16歳のとき、州主簿として召され、秘書郎を初任とした。550年(天保元年)に北斉が建国されると、太子舎人となった。ほどなく母が死去したため、辞職して喪に服した。喪が明けると晋州法曹参軍となり、まもなく再び太子舎人に任じられた。559年(乾明元年)、中書舎人となった。560年(皇建元年)、司空掾・秘書丞に任じられた。562年(河清元年)、散騎常侍となり、南朝陳への使者として派遣された。出国の道中に中書侍郎へと遙任された。帰国後、事件に連座して官爵を剥奪された。567年(天統3年)、并省吏部郎中・南陽王友に任じられ、晋陽に赴いて機密をつかさどった。 ときに孝琰は和士開の母の葬儀を弔問して、批判的な発言を漏らし、これが伝わって和士開の怒りを買った。後に黄門郎の李懐が南陽王高綽の放恣なふるまいを上奏すると、和士開はこの機を捉えて王の友である孝琰のことを讒言した。後主は孝琰の娘(范陽王妃)に馬鞭100回あまりの罰を与えて放り出し、さらに高阿那肱を派遣して50回を加えると、ほどなく孝琰の娘は亡くなった。孝琰は無官となったが、和士開の死後に通直散騎常侍となって復帰の糸口をつかんだ。後に北周とのあいだで修好が成ると、趙彦深の推薦により、北周への副使として派遣された。祖珽が政権を握ると、孝琰は文林館に入り、『御覧』の編纂にあたった。孝琰の文筆は優れていると言えなかったが、その談論は面白く、ふるまいは物静かで優雅であったため、当時の人に慕われた。 ほどなく孝琰は本官のまま尚書左丞を兼ねた。ときに胡太后のお気に入りの曇献という沙門があり、太后の寵愛を受けて贅沢なふるまいをしていた。太后は曇献のために沙門統の地位を求め、後主の反対にも関わらず、押し通してしまった。後主はこれが面白くなく、曇献を官吏に弾劾させようと考えた。孝琰は曇献の収賄を立件して、その邸を捜索し、多大な財産を押収した。これにより孝琰は正式に尚書左丞となり、奏門下事をつとめるようになった。573年(武平4年)、韓長鸞の讒訴を受け、崔季舒・張彫虎・劉逖・裴沢・郭遵らとともに斬り殺された。享年は51。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「封孝エン (北斉)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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