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封禅国山碑(ほうぜんこくざんひ)とは、三国時代の呉において天璽元(276)年に建てられた顕彰碑。研究者によっては「禅国山碑」と呼ぶ場合もある(理由は後述)。設立事情が同年に建てられた天発神讖碑と同じで、両碑は兄弟関係にあたる。 独自の極めて特殊な書風と内容を持った碑として知られている。また呉を崩壊させた皇帝・孫皓の暴走ぶりを後世に伝える史料ともなっている。 魏の碑が大半を占める三国時代にあって、貴重な他国の書蹟である。現在は国山頂上に原石が残されており、廟が設けられ厳重に保管されている。 ==建碑の事情== この碑の建造時期は三国時代ではあるが、既に蜀と魏は滅亡して「三国」のバランスは崩れており、魏から禅譲を受けた西晋の勢力に圧迫されながら、ようやく呉のみが生き長らえている状態であった。 その呉も、第4代皇帝である孫皓が異常な暴君で、臣下の粛清や無理な遷都を行って国力を疲弊させたばかりか、この頃には現実逃避して神秘思想にふけるようになった。これに周囲の奸臣が追従し、次々と国内で瑞兆が見つかったという怪しげな報告をもたらすようになる。これに踊らされた孫皓は次々と恩赦や改元を繰り返し、いつしか「呉が天下を統一する」という現状ではまず有り得ない幻想を抱くようになったのである。 建碑の発端は正史『三国志』などによれば、前年の天冊元(275)年、地元の言い伝えで流れが止まれば天下が乱れ、復活すれば平和になると言われていた臨平湖の水流が復活したこと、また臨平湖のそばで、ある人が「呉真皇帝」と刻まれた小石を拾ったという報告を、孫皓が「呉が天下を統一して平和をもたらし、自分が真の皇帝になるという天のお告げである」と解釈したことによる。 これにより孫皓は大赦と改元を行い、さらに「呉の皇帝こそ真の皇帝」という「お告げ」に従うために、現在の江蘇省にある陽羨山という山に臣下の董朝や周処を派遣し封禅の儀を行った。本来封禅は天下を統一した帝王が行うものであり、斜陽の国の君主が行っても何の意味もないが、孫皓は大まじめにこれを行った上、記念として山名を「国山」と改称し碑を建てた。これが封禅国山碑である。なおこれとほぼ同時期に同じく瑞兆を記した天発神讖碑が建てられている。 しかしそんな荒唐無稽な「お告げ」が実現するわけもなく、4年後の天紀4(280)年に西晋軍によって「破竹の勢い」であっという間に攻め落とされて呉は滅亡、同碑は孫皓の暗愚を千数百年後まで語り継ぐことになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「封禅国山碑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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