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専大 ( リダイレクト:専修大学 ) : ウィキペディア日本語版 | 専修大学[せんしゅう]
== 概観 ==
=== 大学全体 === 専修大学は1880年9月16日に開校した専修学校(現在の専修学校とは異なる)を前身とし、1922年に大学令に基づく大学となった私立大学である。五大法律学校の一校としても知られる名門である。
専修大学の母体は、1875年に日本人の官費留学生によってアメリカ合衆国で結成された「日本法律会社」にまでさかのぼる〔ニュース専修創立記念日特集 P1 〕。当時、明治政府は近代国家の建設を目標に、西欧の先進的な文化を導入するため、積極的に海外留学政策を推し進めており、創立者たちもアメリカへ留学した人物であった。1879年日本法律会社に所属していた相馬永胤と目賀田種太郎は、東京市京橋区(現東京都中央区)に法律事務所を開設、そこへほぼ同時期に帰国した田尻稲次郎と駒井重格が加わり、アメリカ留学時に構想していた高等教育機関の設立へと動き出す〔。この構想に賛同した福澤諭吉は、まず慶應義塾内に教育機関を開設するように促した。こうして、1879年12月に開設されたのが慶應義塾夜間法律科である。また、同じくこの構想に賛同した箕作秋坪は、自分の私塾である三汊塾へ法律経済科を設置して、相馬らに教授を任せた〔。一方、日本法律会社は、東京大学法学部の卒業生らを加え、東京法学会へと発展し、東京攻法館という教育組織を結成していた〔ニュース専修創立記念日特集 P2 〕。慶應義塾や三汊塾の一部としてでは、自分たちの求める高等教育機関として不十分であると感じた相馬〔らは、本格的に独立した高等教育機関を設立することを模索した。その結果、明治生命本館として使用されていた明治会堂を借り受けられることとなり、慶應義塾夜間法律科と三汊塾法律経済科、東京攻法館を統合し、専修学校を設置することにした〔。これらの教育機関における実績をもとに、相馬ら8名は、1880年8月7日、東京府へ開校届出を提出し、日本初の本格的な私立法律経済学校として認可された〔。その後、明治会堂の完成が遅延したが、福澤の好意で、簿記講習所を仮校舎として使用することとなり、簿記講習所で開校式が執り行われた〔慶應義塾百年史.別巻,大学編 法学部〕〔。明治会堂跡地(現在の東京都中央区銀座3丁目)には、専修大学発祥の碑が設けられている。 専修大学は青山学院大学、慶應義塾大学、國學院大學、上智大学、中央大学、東海大学、日本大学、法政大学、明治大学、立教大学、早稲田大学で構成される東京12大学の一校である。現在では7学部17学科・6大学院研究科を抱える、社会科学・人文科学(ネットワーク情報学部のみ文理融合の方針となっている)の総合大学へと発展した。大学本部及び法学部生が通う神田キャンパスは、古くから東京都の中心地である千代田区の神田神保町に位置する。皇居や北の丸公園、靖国神社付近に立地しており、神田五大学とともにカルチエ・ラタンと呼ばれる学生街を形成している。戦後に入ると郊外へとキャンパスを広げ、神田・生田の2キャンパス体制となる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「専修大学」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Senshu University 」があります。
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