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専行院(せんこういん、寛政9年(1797年) - 明治5年6月11日(1872年7月16日))は、江戸幕府11代将軍徳川家斉の側室。俗名は美代(伊根とも)。 == 生涯 == 実父は内藤造酒允就相、養父が中野清茂とあるが、真の実父は中山法華経寺の智泉院の住職で破戒僧の日啓である。 はじめ駿河台の中野清茂の屋敷へ奉公に上がったが、清茂は美代を自身の養女として大奥に奉公させ、やがて美代は将軍家斉の側室になり、文化10年(1813年)3月27日に溶姫、文化12年(1815年)10月16日に仲姫、文化14年(1817年)9月18日に末姫を産んだ。仲姫は夭折したが、溶姫は加賀藩主前田斉泰、末姫は安芸国広島藩主浅野斉粛へ嫁入りした。 家斉の寵愛が深く天保7年(1836年)、家斉にねだって感応寺を建てさせ将軍家の御祈祷所にした上、実父の日啓を住職にさせることに成功している。また、前田斉泰に嫁いだ溶姫との間には前田慶寧が誕生したが、大奥での権勢を固めたい美代は家斉に慶寧をいずれ将軍継嗣にして欲しいとねだり、家斉の遺言書を偽造したとまでいわれている。 家斉死去後は、落飾し、専行院と号して二の丸に居住した。 慶寧の伯父(溶姫の兄)である12代将軍・徳川家慶が政治を行うようになると、老中首座の水野忠邦は天保の改革を開始し、手始めに大御所時代に頽廃した綱紀の粛正に乗り出し、寺社奉行阿部正弘に命じ、感応寺、智泉院の摘発を行い、住職であった日啓は捕縛され、遠島に処された(刑執行前に獄死)。このとき専行院は、西の丸大奥筆頭女中だった花園とともに押込になり、養父・中野清茂も連座して押込を申し渡された〔深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』(文春新書)ISBN 978-4-16-660606-1〕。 専行院のその後について、三田村鳶魚は「江戸城から追放され、娘の溶姫の願いで本郷の加賀前田家屋敷に引き取られた」とし、広く信じられてきたが、それを裏付ける史料はない。一方で三田村鳶魚が天璋院付きの御中臈だった村山ませ子から聞き取ったところによれば、「二の丸にいて、文恭院(家斉)のお位牌を守っていた」ということで、こちらには、少なくとも文久2年(1862年)、徳川家茂の代まで江戸城大奥二の丸に健在だったとみられる傍証がある〔生麦村名主・関口家の娘であった千恵は、中野清茂の紹介で専行院の局に10年間務め、退職して実家に帰った後も、たびたび旧主に呼ばれて二の丸に逗留していたことが『関口日記』により確かめられる。文久2年の江戸行きは大奥の雛見物を兼ねたもので、二の丸滞在がはっきりしている。千恵は元治元年(1864年)にも江戸に長く滞在しているが、前年に江戸城は西の丸、本丸、二の丸ともに焼失しており、専行院の居所はわかっていない。慶応元年(1865年)、千恵の死去により日記の消息は絶える(参考文献『日記が語る19世紀の横浜』ISBN 4-634-52020-6 収録の大口勇次郎著『「御殿伯母」関口千恵の生と死』、大口勇次郎著『女性のいる近世』ISBN 4-326-65185-7)。なお二の丸は慶応元年に天璋院の居住する御殿として再建されたが、そこに専行院をも含む歴代将軍の側室の住居があったことは記録に残されており、慶応3年(1867年)末に再び二の丸が焼失するまで、専行院は二の丸に住まっていたものと推測される(参考文献 畑尚子『幕末の大奥』岩波新書 ISBN 978-4-00-431109-6)。〕。 明治5年(1872年)6月11日文京区の講安寺にて死去。76歳といわれている。駒込の長元寺に葬られたが、後に金沢市の野田山の墓地に改葬された〔野村昭子著『赤門は知っている』ISBN 978-4-7947-0592-1〕。法名は専行院殿舜沢亮照大禅定尼。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「専行院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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