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ウィリアム・ピット(William Pitt (the Younger)、1759年5月28日 - 1806年1月23日)は、18世紀末から19世紀はじめにかけてのイギリスの政治家、首相(在任:1783年 - 1801年、1804年 - 1806年)。1760年代に首相を務めたチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)とヘスター・グレンヴィルの次男である。チャタム伯ジョン・ピットは兄で、大ピットと同じく1760年代に首相を務めたジョージ・グレンヴィルは母方の伯父、後任の首相ウィリアム・グレンヴィルは従兄に当たる。父であるチャタム伯ウィリアム・ピットと区別するために小ピットと呼ばれる。 1783年、わずか24歳でイギリス最年少の首相となり、1801年にいったん辞任したが、その後1804年に返り咲き、1806年に没するまで首相の職にあり、首相と大蔵大臣とを兼任もしていた。ピットの首相としての在職期間中はジョージ3世の治世下であり、フランス革命やナポレオン戦争を始め、様々な事件がヨーロッパを支配していた。ピットはしばしばトーリー、または新トーリーと考えられているが、自分では「独立したホイッグ」と名乗っており、党派心の強い政治システムの拡大にはおおむね反対していた。 ピットは、イギリスをフランス及びナポレオンとの大戦争で導いたことでよく知られている。彼自身は効率と改革のために尽力した、傑出した行政官であり、優れた行政官が政治を行う新しい世代をもたらした。フランスとの大がかりな戦争のために税金を上げ、急進派を厳しく取り締まった。アイルランドがフランスを支援するのを脅威と感じ、1800年の連合法を根回しした。またこの連合法にカトリック解放を組み込もうとしたが、これは失敗した。ピットはまた、トーリー党を再生させる新トーリー主義を作りだし、1800年から25年間、トーリー党に権力を持たせることを可能にした。歴史家のチャールズ・ペトリーは「もし、ピットが、暴動を起こすこともなしに、イギリスを古い秩序から新しい秩序へ変えたのが正にその理由であれば」偉大な首相の一人であると結論付けており、彼は新しいイギリスがどういうものであるかを理解しているとも述べている〔Charles Petrie, "The Bicentenary of the Younger Pitt," ''Quarterly Review,'' 1959, Vol. 297 Issue 621, pp 254–265〕。それ以外にも、奴隷貿易禁止のために尽力した。 1789年、フランス革命が勃発し、その流れが過激なものへと変容していくにつれて危機感を増し、1793年から3回にわたって対仏大同盟を組織して革命を潰そうとした。そのため、彼はフランスから「人民の敵」と呼ばれることになる。のちに対仏穏健派が支持を失うと、対仏強硬派で主戦派のピットは1804年に再び組閣した。イギリスの保守勢力を糾合し、野党でホイッグの指導者フォックスとともに政党政治の確立に貢献して、イギリスの二大政党政治の土台を築いた。 1805年に第三次対仏大同盟を組織するも、同年のアウステルリッツの戦いに敗北し、彼自身も翌年1月に病没した。また父とともに支えた国王であるジョージ3世とは、カトリックの解放をめぐって対立していた。 ==幼少時から政治家になるまで== ウィリアム・ピットは大ピットの次男であり、ケント州ヘイズのヘイズプレイス(現在のブロムリー・ロンドン特別区)で生まれた。両親ともに政治家の家系で、母親のヘスター・グレンヴィルは、やはり首相を務めたジョージ・グレンヴィルの姉妹だった。伝記作家のによれば、父方から才気と行動力を、母方のグレンヴィル家から断固として、かつ几帳面な天分を受け継いだといわれる。 子供時代は虚弱で病気にかかりやすく、先天性の痛風があった。こういった慢性で消耗性の病気を抱えていたため、家庭でエドワード・ウィルソン牧師について学んだ〔William Pitt the Younger (1759-1806) 〕。ラテン語やギリシア語に通じるなど才能に恵まれていたため、1773年、14歳でケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに入学した。それ以後、この最年少入学記録を破った者はいない(2010年に同じ14歳でケンブリッジ大学に入学するものが現れるまでの237年間、ピットの記録に並ぶものすらいなかった〔http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0108&f=national_0108_019.shtml〕)。大学では政治哲学、西洋古典学、数学、三角法、化学、そして歴史を学んだ〔William Pitt the Younger (1759–1806) HistoryHome.co.uk〕。しかしながら、在学中の成績は特に目立ったものではなかった。 大学での指導教員はで、プレティマンとは個人的に親友となった。後にピットは、この人物をリンカーンの主教、そしてウィンチェスターの主教に任命し、政治家としての人生において、彼の忠告を仰いだ 。ケンブリッジ在学中には若き日のウィリアム・ウィルバーフォースとも友人になった。ウィルバーフォースは生涯の友となり、議会では同盟を結んだ。ピットは仲間の学生や、それ以外にも、自分をよく知っている人物としか付き合おうとしない傾向があり、大学の外の人間と交際するのはまれだった。しかしピットは、魅力があって友好的であると記されている、ウィルバーフォースによれば、ピットは非凡な才能に加え、人を惹きつける、品のいいユーモアのセンスの持ち主だった。「ここまで自由に、楽しそうに、遊び心のある諧謔心で人を喜ばせ、誰をも傷つけることなしに満足させる人物を見たことがない」チャタム伯に叙された父大ピットは1779年に亡くなり、次男であったことから、ピットが相続した遺産はわずかだった。彼はリンカーンの法曹学院で法律を学び、1780年の夏に法曹界に入った。父の大ピットが亡くなった時はその場に居合わせており、父を議場から運び出す手伝いをした〔。 1776年、ピットは虚弱さゆえに病気に倒れ、貴族の子弟のみに許される特権で、試験に合格することなく卒業した。1780年、ケンブリッジ大学が保有していた庶民院の議席に出馬するが落選。今度は学閥の力と縁故を活用しアップルビーの腐敗選挙区の補欠選挙で当選、1781年に下院議員となる(後にケンブリッジ大学に鞍替え)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリアム・ピット (小ピット)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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