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小出 吉政(こいで よしまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。但馬出石藩主のち和泉岸和田藩2代藩主。出石藩小出家2代。 == 生涯 == 永禄8年(1565年)、尾張国愛知郡中村で生まれた。豊臣秀吉の生母大政所の妹、栄松院の夫、小出秀政(岸和田藩初代藩主)の長男。秀吉は従兄にあたる。秀吉に馬廻として仕えた。 天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍した。 天正19年(1591年)、和泉の地で知行を与えられる。 文禄2年(1593年)、従五位下信濃守に叙任され、播磨国有子山城2万石の知行を与えられる。文禄3年(1594年)、伏見城普請を分担。同年6月播磨で2万石加増され、合計4万石の知行。 文禄4年(1595年)、但馬国有子山城6万石に移封される。秀政・吉政親子で合計9万石の知行。 慶長3年(1598年)8月、秀吉の死で国景(刀)を遺贈される。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの時は父秀政と共に西軍に属し、大阪平野の野口・新堀を警備。細川幽斎が守る丹後国田辺城攻撃に参加したが、弟の秀家が東軍に属して関ヶ原本戦で活躍したため、戦後に6万石の所領を安堵された。 皮肉な事に慶長8年(1603年)に秀家が父に先立って病死し、翌年に秀政が死去すると、吉政は父の遺領である岸和田城3万石に移り、長男の吉英が出石を領することになった。 慶長18年(1613年)、大坂の陣の前年に49歳で死去した。法名は雲龍院乾堂元公居士。紀伊国の高野山(奥の院)庫蔵院に葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小出吉政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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