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小原國芳 : ミニ英和和英辞書
小原國芳[おばら くによし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation

小原國芳 : ウィキペディア日本語版
小原國芳[おばら くによし]

小原國芳(おばら くによし、1887年4月8日 - 1977年12月13日)は、日本教育学者。最後の私塾創立者で、学校法人玉川学園の創立者。永野修身海軍大臣直属海軍教育顧問なども務めた。日本基督教団クリスチャン
==生涯==
1887年鹿児島県川辺郡久志秋目郷久志村(川辺郡坊津町久志⇒現・南さつま市坊津町久志)に生まれる。13歳で通信技術養成所に入所し、鹿児島大浜海底電信所の技手となった。
後に鹿児島師範学校広島高等師範学校を卒業。1913年香川師範学校教諭となる。
1915年、29歳で京都帝国大学文学部哲学科に入学し、1918年に卒業。卒業論文は「宗教による教育の救済」で、原稿用紙1500枚におよぶ長大なものであった(後に改稿し『教育の根本問題としての宗教』として刊行)。
大学卒業後、広島高等師範附属小学校教諭・理事(教務主任に相当)となる。1919年澤柳政太郎成城学園を創設するに当たり、長田新の推挙で成城小学校主事(訓導)として赴任。
1921年には、八大教育主張講演会において「全人教育」の理念を唱える。
1926年成城高等学校(7年制)校長となる。駅(成城学園前駅)を招致して宅地開発を行いその利益で学校を建設する方法で成城学園を拡大した。ちなみに現在の成城学園を発展させるにあたって小原は本間俊平に助言を求めており、本間のアドバイスと支援によって計画は形作られていった。その手法を応用し(玉川学園前駅)、1929年に自ら玉川学園を創設した。しかし結局、平行して二つの学校の指導をすることは立ち行かず、教師や保護者を巻き込んだ成城事件が勃発した。そのため成城学園から身を引き、玉川学園での教育に専念する。後の和光学園になる和光小学校も、やはり成城事件に絡んで成城学園から離れた教師・保護者が創立したものである。
玉川学園はその後、幼稚園・小学部・中学部・高等部・大学・大学院をそろえた大規模な総合学園に成長した。玉川大学の初代学長は元東京文理科大学(現・筑波大学)教授の田中寛一、第2代は京都帝国大学での小原の恩師波多野精一で、小原は3代目学長である。
小原が玉川学園を新たに創立するに至った背景には、成城学園が発展するに従い、他の学校と同様に段々と帝大などへ入学するための予備校となっていたことに不満を抱いていたとされる。ある時、京大時代に世話になった恩師の小西重直波多野精一西田幾多郎を招いた時、小原は「夢の学校論」を唱え、新教育総本山を築くことを訴えた。
小原は玉川学園を創立すると同時に、最高学府である大学の創立に向け準備を整え、1942年(昭和17年)に皇族東久邇宮稔彦王永野修身元帥海軍大将小西重直博士らと共に玉川学園内に興亜工業大学を創立することに成功した(1942年創立。現・千葉工業大学)。大学は玉川学園文部省(今の文部科学省)の協力のもと半官半民大学として創立され、国家枢要を担う人材の養成を行うための拠点として整備される一方で、小原が唱えた全人教育等の教育理念が建学の精神として採り入れられるなど奇抜な学風の大学として誕生した。現在、この大学は単科大学でありながら、学生総数約一万人の大学にまで成長している。
また、時の海軍大臣永野修身に乞われて、日本海軍の教育改革に協力した際、海軍の伝統となっていたハンモックナンバーによる昇進や役職任命制度を廃止し、能力主義によるものへと改めるように助言したが、永野海軍大臣が本格的に改革に乗り出す前に辞任してしまい、実現しなかった。
国家を造るのは人であり、国家の存亡にとって教育が一番大切だと考えていた小原は、陸軍には参謀本部海軍には軍令部司法には大審院などの最高機関があるように国家を形成する人を造るための最高機関として「教育本部」の設置が望ましいと考えていた。日本の教育立国建設を実現するために玉川学園と興亜工業大学の創立に尽力した。
軍部をはじめとするエリート主義で成り立つ階層主義の人々からの圧力もあったが、皇族東久邇宮稔彦王を筆頭に、大日本帝国海軍では歴代の海軍兵学校校長経験者をはじめ、永野修身元帥海軍大将山梨勝之進海軍大将などが、大日本帝国陸軍では菱刈隆陸軍大将土肥原賢二陸軍大将などが小原の考えに共感し、支援していた。
太平洋戦争の敗北については「教育者を冷遇し、試験と点数と、詰め込み棒暗記と、肩書と出世とのみ重視した日本の教育が、自由と大胆と、創造と進取と、プロジェクトと個性尊重とを大事にしたアメリカの教育に全く負けた」と明治以来の教育政策(人づくり)の問題が敗戦に至った原因であると回想している。また、日本が敗戦に至ったのは日本人(特に政治家などの国家枢要を担う人達)に、宋美齢のような信頼できる外国の友達がいなかったためだとし、積極的に外国の友達をつくるべきだと説いた。
小原は生前、自らを「玉川のオヤジ」と称し、「教壇で死にたい」とよく話していたが、1977年12月に90歳で亡くなる数ヶ月前まで、点滴を受けながら大講義室の壇上で熱弁を奮い、まさに教育にささげた一生であった。
妻は小原信(のぶ)。ちなみに、南日本新聞社編『教育とわが生涯』(玉川大学出版部)という自らの人物伝にあとがきを寄せているが、その中で「薩摩っ子の血が騒いで、つい妻の信に茶碗を投げつけることもある」と告白している。
幼い時に養子に出され、鰺坂(あじさか)姓を名乗っていた時期もある。子の小原哲郎、孫の小原芳明は玉川学園長。また養子に甲南女子大学学長を務めた鰺坂二夫(養子となったのち、國芳の娘と結婚し、國芳に代わり鰺坂家を相続した)がいる。二夫の子で、孫に当たる鰺坂真関西大学名誉教授
『全人教育論』をはじめとする膨大な量の著作は『小原國芳全集』(全48巻)にまとめられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小原國芳」の詳細全文を読む




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