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小原 重哉(おはら しげや〔『明治維新人名辞典』255頁。〕〔『日本刑事政策史上の人々』〕 / しげちか〔『名典獄評伝』〕、1834年9月11日(天保5年8月9日)〔「〔岡山県士族小原重哉履歴書〕」〕〔『明治維新人名辞典』255頁では「天保7年」。〕 - 1902年(明治35年)5月28日〔〔『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』103頁では「5月27日」。〕)は、日本の司法官僚、内務官僚。貴族院勅選議員。初名は澄太郎〔、号は米華〔。 ==経歴== 岡山藩の人。藤本鉄石・岡元太郎らと交わって、尊王攘夷運動に投じた。1864年(元治元年)、岡元太郎らとともに新選組の密偵松山幾之助を斬殺して梟首した。この一件で獄に下されるが、間もなく赦免された。 明治維新後、慶応4年9月5日(1868年10月20日)、新政府の刑法官に出仕し鞠獄司吟味掛となる〔。その後、司法省判事となり、監獄制度改良に貢献した。監獄が内務省に移管されると、内務省監獄局次長に就任した。 1890年(明治23年)に元老院議官に就任したが、同年の元老院廃止に伴い、1891年(明治24年)12月22日に貴族院議員に勅選された〔『官報』第2546号、明治24年12月23日。〕。 画を好み、松田翠崖に師事。絵画共進会や内国勧業博覧会で審査員を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小原重哉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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