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小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1971年7月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。小原 重厚と表記する文献も有る。 == 経歴 == 東京都出身〔『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』443頁。〕(北海道出身とする資料も有り〔『日本陸海軍総合事典』第2版、32頁。〕)。司法官・小原文太郎の長男として生まれる。札幌一中卒を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第25連隊付となる。陸士予科生徒隊付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、歩兵第25連隊中隊長となる。 1930年(昭和5年)12月、参謀本部付勤務(ロシア班)となる。同年、ロシア班長の橋本欣五郎が結成した桜会に参加。橋本の腹心の一人として、長勇・田中弥・天野勇らとともに、1931年(昭和6年)の三月事件・十月事件の謀議に加わる。十月事件における小原の役割は、警視庁の襲撃であった。計画は事前に発覚するが、処分は橋本・長らと同様軽いものであった。同年12月、関東軍司令部付・満州里特務機関長に就任。 1934年(昭和9年)3月、第4師団参謀。1935年(昭和10年)8月、歩兵少佐となり、1936年(昭和11年)6月、イラン公使館付駐在武官。同年12月、歩兵第45連隊大隊長となり、翌1937年(昭和12年)の支那事変に出征。同年12月の南京攻略戦にも参加している。1938年(昭和13年)3月、歩兵中佐となり、同年7月、第1軍参謀に就任。1939年(昭和14年)5月、近衛師団参謀。南支那方面軍麾下の近衛混成旅団として、同年11月の南寧作戦に参加。留守近衛師団参謀を経て、1940年(昭和15年)8月、陸軍大佐に昇進し、第25師団参謀長となる。 日米開戦後の1942年(昭和17年)3月、陸軍歩兵学校教官に就任。同年11月、第2師団麾下の歩兵第29連隊長に補され、ガダルカナルの戦いに参加する。だが、同連隊は10月の戦闘で、古宮正次郎前連隊長以下半数以上の将兵を失い、生存者も大半が負傷者・疾病者という悲惨な状況下にあった。さらに、補給路を絶たれたことによる、深刻な食糧不足がそれに追い討ちをかけていた。小原の着任後は、師団予備として海岸警備に従事するが、止む事のない米軍の攻撃と、飢えと疫病により死者の数は増え続け、翌1943年(昭和18年)2月の撤退時の兵員は、上陸時の約2500名に対し約300名という惨状であった。 1943年3月、留守近衛師団司令部付。同年12月、支那派遣軍直轄の第2野戦鉄道司令部高級部員に就任し、南京に赴任。そのまま同地で終戦を迎え、1946年(昭和21年)4月、復員。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小原重孝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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