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小原 鐵五郎(おばら てつごろう、1899年(明治32年)10月28日 - 1989年(平成元年)1月27日)は日本の信用金庫経営者。城南信用金庫の第3代理事長であり、全国信用金庫連合会(現信金中央金庫)会長、全国信用金庫協会長を永年にわたって務め、信用金庫の発展に努める。歯に衣着せぬ直言で金融界のご意見番といわれる。従三位勲一等瑞宝章。 == 来歴・人物 == 明治32年(1899年)10月28日、東京府荏原郡大崎村字居木橋(現:東京都品川区大崎3丁目)に小原兼治郎・りんの五子として生まれる。家業の農業に従事。第一日野尋常小学校卒。大正7年(1918年)に生じた米騒動を見て、貧富の差をなくして安定した社会を作りたいと考え、大正8年(1919年)7月大崎信用組合設立時に書記として入社。実務に精励し次第に頭角を現す。 昭和20年(1945年)2月専務理事就任。同年8月10日に空襲により被害を受けた東京城南地区の15の信用組合が合併して城南信用組合が発足し、専務理事に就任。同年12月、産業組合の代表として政府の財産税調査立案に関する委員会委員に就任して新円切替に携わり池田勇人、前尾繁三郎などと懇意を得る。 昭和25年(1950年)6月1日の信用金庫の親機関である「全国信用協同組合連合会」(現信金中央金庫)の発足に尽力し常務理事に就任。ちなみに同連合会は城南信用金庫の応接を事務所として発足した。昭和26年(1951年)6月15日に信用金庫の単独法である信用金庫法の成立に尽力する。 初代理事長である代田朝義(六郷信用組合:後に大田区長となる)、2代目理事長である酒井熊次郎(入新井信用組合:初代全国信用金庫連合会(現信金中央金庫)会長)のあと、昭和31年(1956年)5月に城南信用金庫の3代目理事長となる。昭和38年(1963年)に全国信用協同組合連合会(現信金中央金庫)会長。昭和41年(1966年)3月に全国信用金庫協会長。以来両会長職を長年務め全国の信用金庫をまわるなど信用金庫業界の結束に尽力する。 この間、大蔵省の金融制度調査会委員として預金保険法の成立や限度額の拡充など金融制度の整備にも貢献。昭和43年(1968年)の金融二法成立時には、株式会社化の危機にあった信用金庫制度を守りぬく。信金中央金庫の支店をニューヨーク、ロンドン、シンガポールに開設するなど国際業務の拡充に尽力、信金情報システムセンターSSCを設立、信金中央金庫による金融債の発行を実現など、中小企業と信用金庫業界の発展に貢献。「裾野金融」「貸すも親切、貸さぬも親切」「カードは麻薬」などの「小原哲学(名前の一字を取って、鉄学・鐵学とも言われる)」は現在も信用金庫業界の経営理念として残る。 世のため人のために貢献する有為な人材を育成するために財団法人小原白梅育英基金を設立し全財産を遺贈。同財団は日本でも有数の奨学育英基金となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小原鐵五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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