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小坂 順造(こさか じゅんぞう、1881年3月30日〔『閨閥』、322頁。〕 - 1960年10月16日)は、日本の実業家、政治家。信越化学工業及び東信電気及び長野電灯創業者。長野県生まれ。 == 来歴・人物 == 長野県長野市で、信濃毎日新聞社長や衆議院議員などを務めた小坂善之助の長男として生まれる〔『閨閥』、320-322頁。〕。旧制長野中学校(現長野県長野高等学校)、信濃毎日新聞取締役、日本中学などを経て、1904年に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業する〔。元社団法人如水会会員であり、籠城事件の際は交渉委員として母校防衛に活躍した。 1904年に日本銀行へ入行、1908年に同行を退職し信濃銀行(現みずほ銀行)取締役〔、1911年信濃毎日新聞社長〔、長野商業会議所会頭〔、1923年長野電灯(現中部電力小黒水力発電所)社長、1928年信越窒素肥料(現信越化学工業)社長、1950年日本発送電総裁〔『閨閥』、323頁。〕、1954年電源開発総裁〔。電気事業経営者会議委員長なども務めた。 1912年、第11回総選挙に立憲政友会公認で立候補し、衆議院議員に初当選する〔長野県郡部区 第11回衆議院議員選挙 - ザ・選挙 - 〕。その後立憲民政党に所属する。1929年に拓務省政務次官、1932年に貴族院多額納税者議員、1946年に枢密顧問官と歴任した。1960年10月9日に胸の痛みを訴えて倒れたのち、世田谷区にある自宅で療養を続けていたが、10月16日昼過ぎに79歳で死亡した。死因は心筋梗塞である。勲一等旭日大綬章を贈られた。 渋谷区金王町や世田谷区瀬田に住んだ。世田谷の住居は区指定有形文化財とされ、財団法人世田谷トラスト協会により瀬田4丁目広場として保存されている。墓は多磨霊園にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小坂順造」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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