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小堀杏奴 : ミニ英和和英辞書
小堀杏奴[こぼり あんぬ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほり]
 【名詞】 1. moat 2. canal 
: [あんず]
 【名詞】 1. (gen) (food) apricot 2. apricot tree 
: [やつ, やっこ]
 【名詞】 1. (vulg) fellow 2. guy 3. chap 

小堀杏奴 : ウィキペディア日本語版
小堀杏奴[こぼり あんぬ]

小堀 杏奴(こぼり あんぬ、1909年(明治42年)5月27日 - 1998年(平成10年)4月2日)は、東京府出身の随筆家
== 経歴 ==
森鴎外と後妻・志げの間に次女として生まれた。1913年(大正2年)12月1日、仏英和高等女学校(現白百合学園高等学校)の幼稚園に入園。1915年(大正4年)、仏英和尋常小学校に入学。しかし、弟誠之尋常小学校になじめず、たびたび杏奴のいる仏英和尋常小学校に来たため、4年生のときに類のかよう誠之尋常小学校に転校した。当時、類が通学路で他校の児童からいじめられそうになると、持ち前の気の強さから「うちの弟をどうするのよ」といじめっ子たちを板塀に押しつけて類をかばい、類の友人の間で尊敬されていたという〔森類(ちくま文庫版、1995年)、32頁。〕。仏英和高等女学校に進学した1922年(大正11年)7月、父が死去。1927年(昭和2年)、同校を卒業。
1931年(昭和6年)、類とともに画家藤島武二に師事。同年11月、類と一緒にフランスに渡り、パリ洋画を学ぶ。1934年1月に帰国。同年11月、藤島武二の仲人で画家小堀四郎と結婚。1936年(昭和11年)2月、岩波書店から『晩年の父』を刊行。同年3月3日に長女・桃子が誕生し、翌4月11日に母が死去。1938年(昭和13年)2月5日に長男・鴎一郎が誕生し、同年11月に編著『森鴎外 妻への手紙』を刊行。1945年(昭和20年)、長野県立科町に疎開。1958年(昭和33年)、カトリック入信。1984年(昭和59年)、夫と長男とともに、ベルリンやパリなどを旅行し、夫妻の旧友、画材店の娘ロジータと再会。1998年(平成10年)4月2日、88歳で死去(同年8月9日に夫も死去)。
なお、小堀家と親しくしていた音楽家の林龍作が「この4人の家族ほど、完全な家庭を営む人たちはいない。私はいつも小堀家をおもう毎(ごと)に、古いイタリアの画家達がたびたび題材とした『聖家族』の画が眼に浮かぶのである」(小堀杏奴『その他大勢』序文)と記したように、杏奴は、よき伴侶をえて、また2人の子供にも恵まれた〔講談社文芸文庫版の『朽葉色のショール』316-317頁、小尾俊人「解説」、2003年。〕。もっとも、気性の激しい母と気が合わない親族とは、必ずしも良好な関係でなかった。とくに1956年(昭和31年)、弟・類が随筆『鴎外の子供たち』を刊行し、母が類の学業不振にとても落胆していた様子などを暴露したことで弟と絶交。以後、和解することはなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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