|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 堀 : [ほり] 【名詞】 1. moat 2. canal ・ 正 : [ただし, せい, しょう] 【名詞】 1. (logical) true 2. regular ・ 次 : [つぎ] 1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station
小堀 正次(こぼり まさつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。備中松山藩初代藩主。小室藩小堀家初代。小堀遠州の父。 ==略歴== 天文9年(1540年)、小堀正房の長男として近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)に生まれ、出家したが還俗して磯野員昌の娘と結婚した。員昌が浅井家から離反したことにより再び出家するが、またもや還俗して羽柴秀長に仕えることになる。最初は1,000石の知領だったが、秀長・秀吉の元で政治手腕を買われて、主に紀伊国や大和国の検地代官を務め(紀伊や大和は寺社勢力が多く、検地が容易でない事からも、その手腕を買われていた事がわかる)、次第に加増して5,000石に達した。秀長の没後は秀吉に仕えて大和・和泉・紀伊の郡代に任ぜられている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、会津征伐に従軍。戦後、備中松山に1万4,000石を与えられ、備中における天領の管理も任された。また、備中や近江における幕府の検地などにおいても、大いに功績を挙げ、慶長6年(1601年)には、伏見城の作事奉行も務めている。 慶長9年(1604年)、江戸へ参勤に向かう途上、藤沢で急死した。跡を長男の政一が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小堀正次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|