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小山作之助 : ミニ英和和英辞書
小山作之助[こやま さくのすけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

小山 : [こやま]
 【名詞】 1. hill 2. knoll 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [さく]
  1. (n,n-suf) a work 2. a harvest 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [すけ]
 (n) assistance

小山作之助 : ウィキペディア日本語版
小山作之助[こやま さくのすけ]

小山 作之助(こやま さくのすけ、文久3年12月11日1864年1月19日) - 昭和2年(1927年6月27日)は、日本の教育者作曲家日本教育音楽協会初代会長。
==略歴==
文久3年12月11日(1864年1月19日)新潟県中頸城郡大潟町(現在の上越市大潟区)潟町に生まれる。16歳で小学校を卒業した後、石油事業をしていた父の仕事を手伝うため高田町(のちの高田市、現在の上越市)へ移り住み、夜は漢学塾に通う生活をしていた。
1880年(明治13年)家人に無断で上京、大学予備門を経て築地大学(現在の明治学院大学)へ入学する。英語数学を学び1883年(明治16年)2月、文部省音楽取調所に入学し、伊沢修二に師事。小山は「品行方正学術優等」とされたため卒業まで一ヶ月六円の手当てを支給された。1887年(明治20年)、音楽取調所はのちに東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に改組され、小山は首席で卒業した後も、校長となった伊沢に引き続き研究生として師事し、教授補助として教壇に立った。小山は学生の指導、音楽の研究や作曲に非常に熱心で、教え子にはのちに作曲家となる滝廉太郎らもおり、才能を見出した小山が滝にドイツ留学を勧めたとも伝えられる。1897年(明治30年)には教授となったが6年後、1903年(明治36年)に同校を退職した。退職後はかつての教え子の面倒を見ていたほか、47歳の時には文部省唱歌の編纂委員となり、作曲や他の委員の指導などにあたった。1904年(明治37年)には山葉楽器(現在のヤマハ)の顧問となる。また多数の音楽学校の創設、運営にも関わるなど多方面で活躍した。
しかし1927年(昭和2年)6月、東京の自宅で執筆中に倒れ、狭心症のため死去する(享年65)。
「日本音楽教育の母」とも謳われる小山の作曲は唱歌、童謡軍歌校歌など非常に多岐に亘り、総作曲数は1000曲を越えるといわれる。また唱歌は当時の国策下で「作者不詳」として発表されたものが多く、小山が生涯実際に作曲した正確な曲数は未だ不明である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小山作之助」の詳細全文を読む




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