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小山内薫 : ミニ英和和英辞書
小山内薫[おさない かおる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

小山 : [こやま]
 【名詞】 1. hill 2. knoll 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [うち]
 【名詞】 1. inside 

小山内薫 : ウィキペディア日本語版
小山内薫[おさない かおる]

小山内 薫(おさない かおる、1881年明治14年)7月26日 - 1928年昭和3年)12月25日)は、明治末から大正・昭和初期に活躍した劇作家演出家批評家。日本の演劇界の革新にその半生を捧げた。
== 来歴 ==
陸軍軍医である父の赴任地、広島(広島県広島市細工町:現在の中区大手町)で、八男として生まれた。5歳のとき父が38歳で早逝したことから東京へ移り、府立一中を経て旧制一高時代に失恋をきっかけに内村鑑三に入門。内村の主宰する雑誌の編集などを手伝ったが、まもなくキリスト教を離れた。東京帝国大学文学部英文科に進学。1学年留年しており、英語教師ラフカディオ・ハーンの解任に対する留任運動に加わったためともいわれる〔ハーンの後任が夏目金之助である。〕。在学中から、亡父のかつての同僚でもある森鴎外の知遇を得て、伊井蓉峰の一座の座付作家となって舞台演出に関わったり、詩や小説の創作を行った。1906年(明治39年)、大学卒業。1907年(明治40年)、知人で木場の材木商だった数井政吉から資金援助を受け、同人誌『新思潮』(第1次)を創刊。6号まで刊行し西欧の演劇評論・戯曲を精力的に紹介した。1908年(明治41年)に書いた『内的写実主義の一女優』という文献の中で、初めて「演出」という言葉を使ったといわれる〔舞台監督論 〕。1909年から読売新聞に連載後、1911年出版された自伝的小説『大川端』では、芸者との恋模様を描いた。
1909年(明治42年)、欧州から帰国した歌舞伎俳優の二代目市川左團次と共に自由劇場を結成。第1回公演にはイプセン作、鴎外訳の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演。当時ヨーロッパの主導的な芸術理論となりつつあったリアリズム演劇の確立を目指し、日本の新劇史上に重要な足跡を刻んだ。20世紀初頭の日本の代表的演劇は歌舞伎で、看板役者中心の演劇であり、客は個々の役者の芸を堪能しに芝居見物に出かけた。このような演劇のあり方に対して、小山内の考えた近代演劇とは、何より戯曲を優先し、それを正しく表現する媒介としての演出、演出に基づいて初めて演技がある、というものだった。
1912-1913年に渡欧し、モスクワベルリンロンドンなどを訪れた。各地の劇場に通ったが、特にモスクワではモスクワ芸術座による『どん底』を2回観て、俳優・演出家スタニスラフスキーの自宅に招かれた。
同じく渡欧していた親友・山田耕筰は、小山内との関係から演劇や舞踏への傾斜を深め、帰国後の1916年大正5年)、小山内と移動劇団「新劇場」を結成した〔『私の履歴書 第三集』日本経済新聞社、1963年、10-16頁〕〔text - 古書日月堂 | text | detail 〕〔山田耕筰 - おんがく日めくり | YAMAHA 〕。石井漠はこれに加わり、創作舞踊詩を始めた〔現代舞踊の歴史 社団法人 現代舞踊協会 〕〔初期文化学院における舞踏教育実践について ー山田耕筰による「舞踏詩」の試みー 平沢信康 〕〔芸大コレクション展「斎藤佳三の軌跡-大正・昭和の総合芸術の試み-」 〕。また、子役時代の水谷八重子を指導した他〔『私の履歴書 文化人 12』日本経済新聞社、1984年、22頁〕、藤原義江松井須磨子の芝居を観たことと、人を介して小山内ら新劇関係者に会ったことで演劇に憧れ、演劇を志したと話している〔『私の履歴書 文化人 10』日本経済新聞社、1984年、39頁〕。
1919年(大正8年)、小村欣一長崎英造久保田万太郎久米正雄吉井勇らと演劇革新を目的とする「国民文芸会」を創立。1920年(大正9年)2月、松竹が映画製作に乗り出し松竹キネマ合名社を設立。3月には、この中に創設されたキネマ俳優学校に招かれ校長に就任。36名の研究生を募集し養成したが、小山内はこれを単なる学校とは考えず、これら生徒と映画を志して小山内のもとにやってきた人々を集めて実習的に映画の製作を始める〔『日本映画の誕生 講座 日本映画1』 緑川亨著、岩波書店、1985年、39-44、112、118、119、195、196、275-283、339-341頁〕。同年7月、松竹蒲田撮影所が出来て映画製作が始まると、本社理事兼撮影総監督として村田実牛原虚彦島津保次郎大久保忠素水谷文二郎らをスタッフに従え、『奉仕の薔薇』や『光に立った女』などを製作して映画界の革新を図った。そのため従来の商業路線の製作陣と対立、同年村田、牛原らスタッフ達や映画学校の卒業生らと松竹キネマ研究所を設立。その第一作として製作した『路上の霊魂』は同時に進行する出来事をクロスカッティングしたり、回想場面を挿入したりする近代映画の技法をふんだんに取り入れた、日本映画初の芸術大作というべきものだった。続いて『山暮れる』と『君よ知らずや』の二本を製作するが、興行不振などを理由に1921年(大正10年)松竹キネマ研究所は解散され、小山内は松竹の取締役兼相談役に転じた。2年後にはそれも辞し、松竹から退く〔。
映画界に関わった期間は短かったが、伊藤大輔北村小松鈴木傳明澤村春子ら、映画界の人材を育てた功績は大きい〔。この間、1910-1923年には慶應義塾の英文科講師として教壇にも立った。1921年には赤い鳥社から童話集『石の猿』も出版している。
1923年(大正12年)、中山太陽堂の顧問となり、プラトン社発行の雑誌に関与。この関係で関東大震災後に一時大阪天王寺に居を定める。川口松太郎はこの頃小山内の書生をつとめた。
1924年(大正13年)帰京し、ドイツから帰国した土方与志と共に築地小劇場を創設。築地小劇場は、小山内、土方を中心に和田精汐見洋友田恭助浅利鶴雄の六人の同人によって創設されたもの。和田精は和田誠の父、浅利鶴雄は浅利慶太の父である〔『小山内薫 近代演劇を拓く』 小山内富子 著、慶應義塾大学出版会、2005年、193頁。〕。築地小劇場は経営的には苦しむが、ゴーリキーチェーホフらの戯曲を上演、新劇運動の拠点となった。俳優の養成は勿論、照明音響衣裳などにも新しい試みを行い、「演出」という言葉を創り、「演出家」という職能を確立させた〔ゆかりのある人物(小山内薫):中央区観光協会 〕〔。
1925年(大正14年)8月には開局まもないNHK東京放送局で日本初のラジオ劇『炭鉱の中』を演出。〔炭坑の中 -NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス 〕これは、放送局内に人材がいなため、小山内に依頼されたものだが、以来、ラジオドラマは新劇が手掛けることになる。また、ラジオドラマの製作を機に音響効果が飛躍的に進歩を遂げた〔音の仕掛人 〕。1927年(昭和2年)には松竹による国産発声映画の先駆作『黎明』を監督。
同年ソ連の革命10周年記念行事に招かれた際に、無理な日程で体調を崩した。翌1928年(昭和3年)12月25日、円地文子の最初の戯曲「晩春騒夜」上演後の謝恩会が催された日本橋の中華料理店で倒れ、脳梗塞のため急死〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)80頁〕。享年48。その生涯の活動は日本近代演劇の開拓者として「新劇の父」と称された。戦後、新劇は運動の域を離れ、文学座俳優座民芸などを中心に職業演劇の道を歩んでいる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小山内薫」の詳細全文を読む




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