|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 小山 : [こやま] 【名詞】 1. hill 2. knoll ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 信 : [まこと, しん] 1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion
小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆。 == 生涯 == === 出生から家督相続 === 郡内地方の国衆・小山田氏当主・小山田出羽守信有の次男として生まれる。小山田氏は坂東八平氏の一流・秩父氏の血を引くとされるが、異説もある。祖母が武田信縄の娘かつ信虎の妹で、信玄の従甥に当たる〔「武田源氏一統系図」『山梨県史』資料編中世6中世3上(県内記録)所載等による。〕。 信茂の出自は不明瞭が点があり、天文24年9月5日付「柏尾山造営記写」〔「大善寺文書」『山梨県史 資料編4中世1(県内文書)』 - 628号〕に拠れば、天文19年(1550年)3月中旬に父・出羽守信有は柏尾山大善寺(甲州市勝沼町)に参詣した際に惣領の鶴千代丸・藤乙丸の二子を連れ、両人とも「12歳」としている〔丸島(2013)、pp.132 - 133〕。「鶴千代丸」は「惣領(長男)」と記されているため弥三郎信有に、「藤乙丸」は比定され、両人とも天文8年(1539年)の出生と考えられるが、弥三郎信有は永禄5年(1562年)5月の願文で自身の年齢を「廿三」と記しているため生年は天文9年で、信茂は弥三郎信有の庶兄とも考えられている〔丸島(2013)、pp.172 - 173〕。『甲斐国志』でも天正10年(1582年)に43歳死去としており、天文9年出生となる〔丸島(2013)、p.173〕。なお、このほかに『甲陽軍鑑末書』では永禄12年(1569年)時点で27歳とし、天文12年出生とする説もある〔丸島(2013)、p.173〕。 天文21年(1552年)正月には父の出羽守信有が病死し、後は兄の弥三郎信有が家督を継ぐ。従来、弥三郎信有と信茂は同一人物とされていたが、『町田市史』において両人が別人である可能性が指摘され、高野山引導院供養帳により弥三郎信有は永禄8年に死去しており、信茂とは別人であることが判明した〔丸島(2013)、pp.131 - 132〕。 永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』には相模国後北条氏の「他国衆」として兄の弥三郎と並び「弥五郎」の名が記され、信茂に比定される可能性が考えられている〔丸島(2013)、p.173〕。また、『甲陽軍鑑』「甲州武田法性院信玄公御惣人数事」には御譜代家老衆に属す「御小姓衆」として「小山田弥五郎」の名を記し、250騎を率いたとしている。 永禄8年(1565年)に弥三郎が病死したために家督を継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小山田信茂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|