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小山田弥太郎(おやまだ やたろう、生年不詳〔丸島(2015)、p.236〕 - 永正5年(1508年)12月5日〔丸島(2015)、p.236〕)は、室町時代後期・戦国時代の武将。甲斐国都留郡の国衆〔丸島(2015)、p.236〕。父は小山田信長と考えられている〔丸島(2015)、p.236〕。『甲州郡内小山田家系図』に拠れば郡内小山田氏の14代当主で、「弥太郎」は仮名〔丸島(2015)、p.236〕。諱は「信隆」とされるが確証はない〔丸島(2013)、p.80〕〔丸島(2015)、p.236〕。また、同系図に拠れば法名は「徹山(てつざん)」とされるが、これは誤りであることが指摘され〔丸島(2013)、p.80〕、永昌院二世・菊隠瑞潭の語録『菊隠録』に拠れば、法名は「義山」であることが確認されるが、『甲州郡内小山田家系図』では「儀山」を弥太郎の曽祖父・信実としている〔丸島(2013)、pp.80 - 81〕。 妻は駿河国今川氏家臣である高天神福嶋氏もしくは懸川朝比奈氏の正室である人物で、弥太郎没後に「中津森御太方様(なかつもりおだいぼうさま)と呼ばれた〔丸島(2015)、p.237〕。一方、『甲州郡内小山田氏系図』では駿河の国衆・葛山氏の娘で姉は瀬名一秀の室としている〔丸島(2015)、p.237〕。 == 略歴 == 先代の信長からの代替わりの時期は不明であるが、仮名「弥太郎」を名乗っていることから若年での継承であったと考えられている〔丸島(2013)、p.81〕。甲斐国では守護・武田信昌の子である信縄と油川信恵・岩手縄美間で抗争があり、明応8年(1499年)には和睦が成立していた。永正2年(1505年)に信昌が、永正4年(1507年)、信縄が病死すると抗争は再燃する〔丸島(2013)、p.81〕。翌永正5年(1508年)に家督を継承した信縄の嫡男・信直(後の信虎)と叔父・油川信恵・岩手縄美兄弟との間で家督争いが起こり、弥太郎は信恵方に与した〔丸島(2013)、p.81〕〔丸島(2015)、p.236〕。これは、『甲州郡内小山田家系図』において弥太郎の叔母が信恵・縄美兄弟の生母としていることが背景にあると考えられている〔丸島(2015)、p.236〕。 同年10月4日、信恵方は信直に大敗し、信恵・縄美ともに戦死した〔丸島(2015)、p.236〕。『勝山記』によれば、弥太郎はこれに対して国中へ出兵するが、同年12月5日に信直に敗北し、戦死したという〔丸島(2013)、p.81〕〔丸島(2015)、p.236〕。『勝山記』では、弥太郎の戦死により、郡内小山田氏では一門・境小山田氏の小山田平三(弾正)が伊豆国韮山の伊勢宗瑞(北条早雲)のもとへ亡命している〔丸島(2013)、pp.81 - 82〕。弥太郎の享年は不明であるが、「弥太郎」の仮名のまま死去していることから、若年であったと考えられている〔丸島(2015)、p.237〕。 『菊隠録』に拠れば、永正17年(1513年)12月5日に広厳院(山梨県笛吹市一宮町金沢)において、子息(越中守信有)とみられる人物により十三回忌仏事が行われており、法名は「義山勝公禅定院」であるという〔丸島(2013)、p.81〕〔丸島(2015)、pp.236 - 237〕。このことから、弥太郎が小山田氏当主であったことが確認される〔丸島(2015)、p.236〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小山田弥太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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