|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 小山 : [こやま] 【名詞】 1. hill 2. knoll ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point
小山 茂樹(こやま しげき、1935年8月21日 - 2014年7月14日)は、日本の政治学者。元・中東経済研究所(現日本エネルギー経済研究所中東研究センター)理事長。 ==経歴== 岡山県生まれ。1960年3月東京大学経済学部経済学科卒業、同年4月経済企画庁に入庁。1965年1月から大蔵省(現財務省)主計局に出向。 1968年から1970年までアジア経済研究所海外派遣員となりレバノンのベイルート・アメリカン大学に客員研究員として留学した。この赴任中に四つの大きな事件に遭遇している。一つ目の事件は、1968年12月28日夜イスラエルのベイルート空港襲撃、二つ目の事件は、1969年4月パレスチナ・ゲリラの支援の是非を巡っての左右両派の対立が暴動に発展、三つ目の事件は、1969年10月二つ目レバノン駐在海外派遣員の事件がエスカレートしてレバノン全土の政治的危機、四つ目の事件は、1970年9月パレスチナ・ゲリラによる4機の旅客機ハイジャックとエジプト大統領ナーセルの急死である〔小山茂樹『レバノン -アラブ世界を映す鏡-』中央公論社〈中公新書474〉 1977年 2-11ページ〕。 1972年から小坂善太郎経済企画庁長官秘書官を務めたのち、1974年財団法人中東経済研究所(現一般財団法人日本エネルギー経済研究所中東研究センター)設立に参画し、同研究所研究主幹に就任。1976年法政大学経済学部兼任講師。1980年から経済企画庁長官官房参事官及び日本機械輸出組合中東・アフリカ地域委員会委員長、アジア経済研究所調査協議会委員を務め、1981年には東京経済大学経済学部兼任講師も兼務。1982年に経済企画庁を退官。同年財団法人中東経済研究所常務理事に就任。1984年武蔵大学経済学部兼任講師、1985年財団法人中東経済研究所専務理事、1988年財団法人中東経済研究所理事長( - 1995年)、株式会社日興リサーチセンター(現日興フィナンシャル・インテリジェンス株式会社)顧問、1990年中央大学経済学部兼任講師、1994年八千代国際大学大学院国際政治経済学研究科兼任講師、1995年財団法人中東経済研究所顧問。1996年帝京大学経済学部教授、1997年早稲田大学法学部兼任講師、東北学院大学経済学部兼任講師、1999年東北文化学園大学総合政策学部教授、株式会社荘銀総合研究所(現フィデア総合研究所)顧問、2004年東北文化学園大学総合政策学部学部長( - 2008年)、2009年千葉商科大学大学院客員教授。中東問題、石油・エネルギー問題の専門家。 2010年、高安動脈炎(現在の巨細胞性動脈炎)に罹患。2014年7月14日午後4時2分、胆嚢癌のため死去〔中東経済研究所理事長の小山茂樹さん死去 日本経済新聞 2014年7月15日〕。78歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小山茂樹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|