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小山 貞朝(おやま さだとも)は、鎌倉時代末期の武将。鎌倉幕府御家人。小山宗長(むねなが)の嫡男で、下野国の有力豪族・小山氏の7代当主。小山城城主。 == 概要 == 北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第9代執権・北条貞時より偏諱を受けて〔紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.15系図ほか)、『結城市史』第四巻 古代中世通史編(結城市、1980年)P.297、市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 -系図研究の視点と方法の探求-」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年 P.96・97)、松本一夫 「総論 − 小山氏研究の成果と課題」(所収:松本一夫 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第六巻 下野小山氏』(戎光祥出版、2012年)P.13)。弟の貞光についても同様であろう。〕貞朝〔「朝」の字は小山氏では朝政・朝長以来に復活したもので、嫡男・秀朝や嫡孫・朝氏もこの字を共有している。これは小山氏が鎌倉時代後末期の低迷状況に危機感を抱き、同時代前期への強い回帰志向が表れたものであるとされている(市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 -系図研究の視点と方法の探求-」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年 P.96-97)。〕と名乗る。 元弘2年(1332年) - 元弘3年(1333年)の間は下野守護の職にあった。 元弘の乱において、新田義貞が鎌倉の北条高時を攻めるために挙兵すると、これに応じて出陣した。その際に先祖代々の財を隠してから出陣したといわれるが、相模国で討死した。子の高朝(秀朝)が跡を継いだが、彼も後に別の戦で戦死している。 なお、『尊卑分脈』『系図纂要』に「評定衆」とあるが、他史料において確認できず、系図に「関東下向之時頓死」とある事から、六波羅評定衆の可能性もある〔細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」P.127-⑤。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小山貞朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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