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小島宏美 : ミニ英和和英辞書
小島宏美[こじま ひろみ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

小島 : [こじま]
 【名詞】 1. small island 2. islet 
: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 

小島宏美 : ウィキペディア日本語版
小島宏美[こじま ひろみ]

小島 宏美(こじま ひろみ、1977年12月12日 - )は福岡県直方市出身の元サッカー選手である。ポジションはFWMFトップ下ボランチ)。
== 来歴 ==
高校時代は東福岡高校山下芳輝とのコンビで活躍し、1996年ガンバ大阪に入団する。
1997年、この年のJリーグ得点王を獲得する事になるパトリック・エムボマ松波正信に次ぐFWの選手として徐々に試合に出場するようになる。
1998年は前年の得点王でクラブの躍進に貢献したエムボマが退団、その後釜として期待されたアント・ドロブニャクがチームになかなかフィットしなかったため、レギュラーに定着。その年、34試合に出場して17得点という自己最高の記録を残す。この頃は特長のスピードを活かした得点やチャンスメイクで活躍し、「スピードスター」の異名を取った。また、この年のガンバ大阪監督のアントネッティは若手選手を積極的に起用し、小島以外にも宮本恒靖稲本潤一播戸竜二などの若手の選手を育てた。特に目立つ活躍をしていた小島、宮本、稲本の三人は、ガンバ三銃士とも呼ばれた。
2000年、ガンバは吉原宏太アンドラジーニャビタウなどの新戦力を迎えて開幕を迎える。特にコンサドーレ札幌から獲得した吉原は期待されたが、吉原は小島と非常によく似たタイプのFWであったため、相殺してしまうのではないかと逆に不安視されることもあった。シーズンが開幕すると、新戦力のアンドラジーニャがなかなかフィットせず、ガンバは第6節まで勝利がなく低迷する。しかし第7節のFC東京戦でシーズン初勝利を飾り、徐々に勢いに乗る。この試合で小島は2得点を挙げ勝利に貢献した。続く第8節のアビスパ福岡戦で、小島は自身初のJリーグでのハットトリックを記録している。クラブも徐々に勢いに乗ったものの、前半の低迷が響き13位で1stステージを終えた。2ndステージが開幕すると、ガンバは1stステージの低迷が嘘のように快進撃を見せ、鹿島アントラーズと優勝争いを演じる。特に2ndステージ途中から加入した元クロアチア代表FWニーノ・ブーレが活躍。しかし2トップの相棒は小島ではなく吉原になっていき、小島はスーパーサブのような扱いとなる。クラブも終盤の柏レイソルや鹿島アントラーズとの直接対決に敗れ失速、結局初優勝は出来ず4位で2ndステージを終えた。小島はこの年から徐々にスタメンでの出場機会が減ったものの、クラブ唯一の全試合出場と最多の9得点を記録しており、クラブにとって欠かせない選手であると証明した。
4月には日本代表に初選出され、4月26日ソウルで行われた韓国代表との試合にて国際Aマッチ初出場を果たす〔。その後もコンスタントに代表に招集されたものの、試合出場はなかった。
2001年、ガンバは優勝を意識したチーム作りを目指し、京都から遠藤保仁市原から山口智を獲得、またウェストハム・ユナイテッドへの移籍が噂された宮本恒靖が労働ビザの問題で急遽残留し、当時のガンバの大きな特徴であったシドニーオリンピック日本代表世代の選手を多く抱えた状況で開幕を迎えた。優勝を狙えるメンバーは揃っていたものの、若い選手達故、勢いに乗ると強いが安定しないといった戦いが続き、結局1stステージを5位で終えた。2ndステージは、稲本潤一がアーセナルへ移籍した影響で早々に優勝争いから脱落、11位でステージを終えた。小島もコンスタントに試合に出場するものの、スタメンでの起用は少なく、またポジション的にも安定しなかったために、満足なシーズンを送れなかった。
2001年終了後、出場機会を求めて移籍を決断する。
2002年、コンサドーレ札幌にレンタル移籍。この年、札幌は新監督に柱谷哲二を迎え、小島以外にも小倉隆史ロブソンなどを獲得しシーズンに臨んだが、開幕からクラブは迷走。小島もJ1リーグ5試合無得点、ナビスコカップ2試合1得点と目立った活躍は出来ず、7月26日、レンタル元であるガンバへの復帰が発表された。しかし、小島は再びレンタルでJ2大宮アルディージャへ移籍する。ちなみに、小島退団の前日に札幌は大宮からFWの磯山和司を獲得しており、事実上のトレード移籍である。8月3日横浜FCとの大宮での移籍後初試合で2得点1アシストを記録し、元日本代表の片鱗を見せた。シーズン終了とともにレンタル元のガンバ大阪への復帰が発表されたものの、ガンバ大阪から戦力外通告を受けた。
2003年大分トリニータへ完全移籍。小島の地元である九州のチームへの移籍ということで期待されたものの、怪我やDFへのコンバートなどがあり、プレーはかつてのパフォーマンスからは程遠いものだった。6月3日、契約満了により大分からの退団が発表され、6月10日ヴィッセル神戸への移籍が決まった。神戸では移籍直後こそ試合に出場していたが、チームの信頼を完全に勝ち取るまでには行かず、2003年シーズン終了後に一度戦力外通告を受けることとなる。しかし、直後の天皇杯で目覚ましい活躍を見せたことがクラブの目に留まり、再契約を勝ち取ることになった。戦力外通告直後に再契約というのは非常に珍しいケースであり、非常に話題となった。この出来事は、小島が再び脚光を浴びるようになるきっかけの一つになった。
2004年、ヴィッセル神戸は経営破綻に伴い親会社をクリムゾングループに変更。新会社の潤沢な資金を使い、新監督に元Jリーガーのイワン・ハシェックを招聘、また元トルコ代表FWイルハンを獲得するなど、非常に話題に富んだ状態でシーズンを迎えた。ヴィッセルの話題は当然イルハンに集中したが、その陰でハシェックによりボランチ、サイドハーフ、サイドバックなど、本来のFWとは別のポジションで新境地を開拓し獅子奮迅の活躍を見せる小島が話題となり、代表復帰を望む声まで上がった程であった。この年、神戸のファンが選ぶファーストステージMVPに選出されるなど、小島復活を印象づけた。ちなみに、ハシェックは神戸のボランチにどの選手を据えるか考えている時、自らの元に小島を呼び「どのポジションをやったことがある?」と聞き、小島が「ボランチ以外はやったことがある」と答えると「ボランチをやれ」と言われ、一体何を言っているのかと思うほど困惑する出来事であり、小島にとっても予想外のコンバートであった。
2004年シーズン途中に成績不振を理由にハシェックは辞任してしまったものの、同監督退任後も様々なポジションをこなしながらレギュラーとして定着し、中盤深い位置からのゲームメイクや攻撃参加で活躍したが、セカンドステージ途中に怪我を負ってしまい徐々に試合に出られなくなった。この年はボランチ、攻撃的中盤、サイドバックなどでプレーした
2005年、ヴィッセル神戸の背番号10を背負い開幕を迎えたが、前年の怪我の影響で出遅れた。クラブは主力選手の怪我での欠場や、運営体制の不備による数々の監督交代、シーズン中のキャプテン変更、精神的支柱でもあった三浦知良の横浜FCへの移籍など、ドタバタ劇を演じてしまう。小島も怪我からの回復後は、本来のポジションであるFWで徐々に試合に出場するようになり、戦力も整ってきたが焼け石に水といった状態であり、J2降格が決まってしまう。小島もシーズン後に戦力外となりクラブを退団した。
2006年からFC岐阜に所属していたが、2008シーズン終了後に戦力外通告を受けた。
2008年3月29日、J2開幕戦のヴァンフォーレ甲府との試合にて、FC岐阜のJ2初ゴールを挙げた。
FC岐阜に戦力外通告を受けたまま、2009年に引退を発表。京都市の企業、ピグリの執行役員に就任した。
2014年1月より愛知工業大学名電高等学校サッカー部のコーチに就任。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小島宏美」の詳細全文を読む




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