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小島 清文(こじま きよふみ、1919年〈大正8年〉12月28日 - 2002年〈平成14年〉3月1日)は、日本の反戦運動家。台湾台北市出身。太平洋戦争末期に戦いの最前線であるルソン島での戦闘に参加し、アメリカ軍の前に敗北必至となった際、「生きて慮中の辱(はずかしめ)を受けず」、つまり敵軍の捕虜になるくらいなら死を選べとの日本軍の心得「戦陣訓」が絶対視された戦中において、敢えて投降の道を選んだ。戦後、後世に自分たちと同じ思いをさせず、戦争のない世界を作るために不戦と平和のために献身した。 == 戦地での体験 == 慶應義塾大学経済学部を卒業後、太平洋戦争の戦局悪化の最中、海軍兵科予備学生隊を経て少尉に任官。戦艦大和の暗号士として暗号電信解読の任務についていたが、1944年(昭和19年)12月、ルソン島での陸上勤務を命じられた。同島赴任後の翌1945年(昭和20年)、戦死した小隊長の後任に急遽任命され、実戦経験皆無、しかも海軍にもかかわらず陸戦の最前線に投入された。 当時の同島では、日本軍はアメリカ軍の前に圧倒的に不利の状況にあった。小島たちの隊も例外ではなく、過酷な特攻を何度も命じられた末に敗走を強いられ、島内を彷徨した〔。島内は兵たちの死体が連なり、敗残兵たちが物資を奪い合って同士討ちをするような悲惨な状態であった。小島たちも次第に物資も体力も消耗し、敗走の道も敵軍に断たれ、餓死を待つばかりとなった。消耗が激しいことから足手まといにならないよう、自決する兵すらいた。 2か月間にわたる彷徨の末、小島はついに投降を決断した。後の自著において小島は投降の決断理由を、部下の命を救うことが目的と述べており、また、かつて暗号士として極秘情報を扱っていたために日本が敗戦必至と理解していたこと、本来は投降者は軍法会議にかけられるが、日本が敗戦すれば軍法会議もなくなると見ていたとも述べている。また、小島は学生時代にアメリカのことをよく学んでいたため、「鬼畜米英」のような悪感情がなかったこと、学校でも教師に盲従するような優等生ではなかったこと、父が自由主義であったために国家を絶対視していなかったこと、自分たちに理不尽な命令を下す上官たちへの不信なども投降の理由として分析されている。 こうした小島の決意は、前述のように戦陣訓が絶対視された日本軍においては異端であった〔。それまで小島に従っていた兵たちの多くは、投降よりむしろ自決の道を選んだが、数名の兵たちは小島を信じて彼に同行。1945年4月13日、小島たちは白旗を掲げてアメリカ軍に投降した。 アメリカ軍の捕虜となった小島は、捕虜収容所の責任者であるアメリカ軍情報将校オーテス・ケーリ中尉と出逢い、彼の勧めで終戦促進運動に参加。戦争の長期化による犠牲者増加を防ぐべく、収容所内でアメリカから日本への投降勧告の翻訳、投稿勧告ビラの製作などを行なった。しかしその後、小島の意思に反して戦争は4か月間も続いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小島清文」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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