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小島藩(おじまはん)は、駿河国庵原郡・有渡郡・安倍郡に存在した藩〔二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」(東京堂出版、2004年9月20日発行)320ページ〕。現在の静岡県静岡市清水区小島地区が中心地にあたる。 小島藩は2万石以下であったため、城を構えることが許されず、藩主の居所は陣屋として構築された。陣屋跡の遺構があり、石垣が残っている。 なお、松會版や山泉堂、須原屋版の武鑑での在所(陣屋所在地)の記載は、立藩以降から少なくとも享保3年(1718年)までは駿州阿部入であったが、享保17年(1732年)の武鑑では駿州小島となり、以降は駿州小島や駿州庵原郡小島となる。 == 藩歴 == 元禄2年(1689年)5月、松平家(滝脇、別名は世良田)の松平信孝が4000石を加増されて1万石となり、大名に列して小島藩を立藩した。しかし信孝時代からすでに財政が窮乏化しており、年貢の先取りなどが行われた。第4代藩主・松平昌信の時代には新たな人材登用、年貢増徴、賦役強化、支出の削減を中心とした藩政改革が行われたが、年貢増徴に反対した百姓によって明和2年(1765年)6月に一揆が起こり、藩政改革は失敗し、年貢軽減要求を認めざるを得なくなった。 第7代藩主・松平信友は「君臣百姓和同一致」という直印書を発行し、領民に財政窮乏化からの年貢増徴のやむなきを説明している。第9代藩主・松平信進は領内産物の紙の専売制を実施して、ある程度の財政改革成功を収めた。 幕末期は、最後の藩主・松平信敏が慶応3年(1867年)に新政府側に与する。明治維新で慶応4年(1868年)5月に小島藩は廃止され、新たに設置された駿府藩の一部となった。そしてその年の7月、信敏は上総国金ヶ崎藩(のち桜井藩に改称)に移封となった。 なお、江戸時代中期に年寄の倉橋格が、恋川春町の名で黄表紙の執筆に当たったことで有名である。また、歴代藩主には養子で入った者が多かった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小島藩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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