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小川 三知(おがわ さんち、1867年7月1日(慶応3年5月29日)- 1928年(昭和3年)10月24日)は大正から昭和初めに活躍したステンドグラスの工芸家。 橋本雅邦に学んだ高い日本画の素養と、アメリカで修行して身に付けた複雑な色調を生み出すガラス技法で、アール・ヌーヴォー、アール・デコ風でありながらどこか日本情緒を感じさせる作品を生み出し、日本初のステンドグラス作家といえる存在である。 == 経歴 == 慶応3年(1867年)、静岡県静岡市裏一番町十五番地(現在の住吉町)で静岡藩医・小川清斎の次男(六人姉弟)に生まれた。長男が早世したため、家業の医者になるべく上京し第一高等中学校に入学したが、絵画への憧れは消えなかった。明治22年(1889年)3月発行の雑誌『美術園』二号に、三知は短いが本格的な日本画擁護論を寄稿しており、三知の見識の高さが伺える〔青木茂 酒井忠康編 『日本近代思想大系 十七 美術』 岩波書店、1989年、所収。なおこの論文は、当時論点となっていた日本画対西洋画論争の中で投稿されており、論争の推移は中村義一 『続日本近代美術論争史』(求龍堂、1982年、pp.7-11)を参照。〕。東京美術学校が設立されると、明治23年(1890年)弟に家督を譲るのを条件に、一高を中途退学して同校日本画科に入り橋本雅邦に学んだ。卒業後、図画教師として山梨や神戸の中学校、師範学校で教えた。この頃三知は、雪舟の『山水長巻』を全図模写している。明治33年(1900年)にアメリカへ留学、シカゴ美術館附属美術大学で水彩画を教え、セントルイス万国博覧会で日本館の仕事を手伝った。後に農商務省海外実業練習生になり、漆芸について研究した。またステンドグラスに興味を持ち、各地の工房で技法を学んだ。 明治44年(1911年)、日本に帰国し慶應義塾図書館のステンドグラスを依頼された。和田英作の絵を原図にした作品は評判になった(現在残るものは昭和42年に設計図を元に復元されたもの〔ただし、図柄とおおよその色は忠実に再現されているが、二重ガラスによる超絶技巧は再現できなかった。オリジナルの作品を覚えていた三知の一人娘は、「昔のはもっと色調が深く官能的だった」と述べている(藤森(2003)p.213)。〕)。個人邸に納めた作品が多く、鳩山会館(旧・鳩山一郎邸)、安藤記念教会、聴潮閣高橋記念館などが知られている。しかし、関東大震災や戦災によって現存している作品は少ない。 三知の死後は、三知の夫人が中心となって職人4、5人で小川スツヂオを維持したが、ステンドグラスの修行をしていない夫人には荷が重く昭和6年(1931年)に閉鎖。当時ステンドグラスは建築物の一部と見なされたため、作品が評価され始めたのはその死の数十年後である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小川三知」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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