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小川 千甕(おがわ せんよう、1882年10月3日 - 1971年2月8日)は、京都市出身の仏画師・洋画家・漫画家・日本画家。本名は小川多三郎。 == 人物 == 京都に生まれる。15歳で仏画師・北村敬重の徒弟となり日本画を学ぶ〔井澤(2003)、p.27〕。一方で20歳の時には洋画家の浅井忠に師事し、洋画を学ぶ〔井澤(2003)、p.27〕。24歳からは雑誌『ホトトギス」』の挿絵なども手掛ける〔井澤(2003)、p.27〕。京都市立陶磁器試験場の技手として絵付けに従事する〔井澤(2003)、p.27〕。28歳で東京に移り、『ホトトギス』『太陽』などに挿絵や漫画を発表し、人気を得る。 1913年(大正2年)から1914年(大正3年)にはヨーロッパに遊学し、帰国後は仁科展に油彩画を発表する〔井澤(2003)、p.27〕。その後、日本画家の平福百穂の主催する日本画グループである珊瑚会に参加すると日本画へ移行し、1921年(大正10年)には院展に日本画を出展している〔井澤(2003)、p.27〕。自由な表現できる日本画である「南画」を追求。多くの作品を発表し、戦後にかけて文人への憧れから「詩書画」を多く手掛けるようになる〔井澤(2003)、pp.27 - 28〕。 1916年(大正6年)には山梨県東八代郡境川村(現・山梨県笛吹市境川町小黒坂)出身の俳人・飯田蛇笏(いいだ だこつ)が排誌『雲母』を創刊する〔井澤(2003)、p.34〕。小川は『雲母』の表紙絵を手がけており、1915年(大正5年)3月には『ホトトギス』同人の高浜虚子らが「甲州吟行」を行うと、蛇笏ら山梨県の俳人が一行を案内しており、この甲州吟行には平福や小川も参加している〔井澤(2003)、pp.34 - 35〕。小川は1928年(昭和3年)にも山梨県を旅行しており、甲府近郊の御岳昇仙峡を訪れ、甲府・長禅寺における句会にも参加し、その際の様子を《甲州紀行画巻》として描いている〔井澤(2003)、p.35〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小川千甕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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