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小川 博(おがわ ひろし、 1962年4月2日 - )は、栃木県足利市〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、123ページ〕出身、群馬県育ちの元プロ野球選手(投手)。 引退後の2004年に強盗殺人事件を起こし、現在も服役中である。 == 来歴・人物 == 出生は栃木県だが、1歳時に子供に恵まれなかった群馬県在住の大工・清掃作業員夫婦の養子となり、以後養父母の元で育つ。前橋工高では甲子園に3回出場〔。甘いマスクと豪腕で人気を集めて「群玉(群馬の玉三郎)」と呼ばれ、甲子園のアイドルとなる。卒業後、青山学院大学へ進学、当時東都大学野球連盟で弱小だった青学大野球部の知名度向上に貢献した。同大学は当時はまだ運動に力を入れる前の段階にあって同大学出身のプロ野球選手は非常に珍しく、小川自身の人気と相俟って同大学の後の野球部躍進のきっかけをつくった。 1984年のドラフト2位でロッテオリオンズに入団〔。サイドスローから繰り出す速球とシンカーを武器にローテーションに入り、元祖ドクターKとも呼ばれた。 にはオールスターゲームに出場し、5者連続三振を記録〔。伝説の10.19では第1試合のロッテの先発投手として近鉄の前に立ち塞がった。この年は203回2/3イニングを投げて両リーグ最多の204奪三振を記録した。規定投球回数以上の投手で、奪三振が投球回数を上回ったのはパリーグ史上初〔セリーグではそれ以前に西村一孔、金田正一、江夏豊が記録している〕であり、最多奪三振のタイトル創設のきっかけとなった〔。 も開幕からローテーションの一角を担うが、5月下旬右肩を痛め支配下登録を抹消され〔ロッテ・小川博投手が現役登録抹消 1989年5月28日 読売新聞 東京朝刊18頁〕、同年8月に復帰したものの、以降は閉幕まで先発7試合を務めて0勝5敗で防御率7.26と絶不調に陥った。 翌4月28日、約1年ぶりに勝利投手となる。その際、ヒーローインタビューで「もう勝てないと思った」と人目も憚らず泣きじゃくった〔毎日新聞1990年4月29日〕。その後、千葉マリンスタジアムにフランチャイズ移転後の初年度に引退した〔。引退後もロッテに残りまでコーチ、から11月まで編成担当の球団職員を務めた〔。ロッテ退団の際には台湾球界からコーチ就任のオファーを受けたが、金額面で折り合いがつかず断っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小川博」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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