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小川 史(おがわ ひろし、1960年6月6日〔『'86プロ野球選手写真名鑑』、日刊スポーツ出版社、1986年4月、P125。〕 - )は、千葉県市川市出身の元プロ野球選手(内野手)〔、プロ野球コーチ。 == 来歴・人物 == 浦安高校ではエースで中心打者。1978年夏の甲子園県予選で準決勝に進出するが、和田豊らのいた我孫子高に敗退。通算打率.475を記録し、同校からのドラフト外で西武ライオンズに入団〔。西武時代は行沢久隆、石毛宏典などの台頭で目立つ活躍はなく、12月に金銭トレードにて南海ホークスに移籍。 中盤から内野の控えとして一軍に定着。には遊撃のレギュラーを獲得し、規定打席にも到達した。その後も内外野をこなす守備要員として活躍。からまでダイエーの選手会長を務め、チームリーダーとしてチームを牽引した。またこの頃、藤本博史・湯上谷竑志・森脇浩司との4人(4人とも名前読みが『ひろし』)で内野を守ることが度々あった。 晩年は浜名千広、若井基安、藤本博史らの台頭により出場機会は減少し、現役最終年となるは一軍出場はなく、同年オフに現役引退。 引退後はダイエー、オリックスのコーチ、ソフトバンクの編成管理スタッフを務め、からまで楽天スカウト、から3年間ソフトバンクの三軍監督を務め、からは一軍ヘッドコーチを務め〔小川ヘッドコーチ、水上コーチが就任会見を行いました 福岡ソフトバンクホークス公式サイト2013年10月15日配信〕、同年のリーグ優勝・日本一に貢献。からは再び三軍監督、からは二軍内野守備走塁コーチを務める。 背番号変更が多い選手で、西武入団時にドラフト外ながらいきなり背番号1を与えられたが(当初は背番号2が予定されていたが、キャンプイン直前にロッテから山崎裕之の移籍が決定し、背番号2を着けることになったため変更)、後に新外国人ジム・タイロンに背番号1を譲り背番号24に。しかし今度は背番号24を秋山幸二(背番号71から昇格)に譲り小川は背番号50に。移籍した南海では最初背番号56を着けていたが奮起して背番号1に昇格も、オフにトレードで入団した秋山に再び背番号を譲渡。背番号1から背番号31に変わり引退まで着用した。ルーキー時代秋山の指導役だった小川についてどんな些細なことでも怒られた。今のソフトなイメージとは想像もつかないほど怖かったと述べている〔秋山幸二著、卒業、西日本新聞社、2003年、P145〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小川史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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