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小川国夫 : ミニ英和和英辞書
小川国夫[おがわ くにお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

小川 : [おがわ]
 【名詞】 1. streamlet 2. brook 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [くに]
 【名詞】 1. country 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

小川国夫 : ウィキペディア日本語版
小川国夫[おがわ くにお]

小川 国夫(おがわ くにお、1927年昭和2年)12月21日 - 2008年平成20年)4月8日)は、日本小説家
== 経歴 ==
静岡県志太郡藤枝町長楽寺(現在の藤枝市本町)に小川富士太郎・まきの長男として生まれる。1933年、青島幼稚園に入園。1934年、青島小学校に入学。1938年、肺結核に腹膜炎を併発し入院、入院3ヶ月後に自宅療養となり、1941年に小学校に復学するまで、安静療養状態が続いた。この自宅療養の時期に相当量の読書をしたことが、その後の小川国夫に影響を与えることになった。1942年、旧制志太中学(現・藤枝東高校)に入学、学徒勤労動員で用宗海岸にある小柳造船所に通う。このときの経験は、のちの作品に色濃く投影されることになる。1946年旧制静岡高等学校静岡大学の前身校の1つ)文科乙類に入学。この頃カトリック洗礼を受ける。洗礼名は、アウグスチノ。
1950年、東京大学国文科に入学。1953年、「東海のほとり」を『近代文学』に発表。その年の10月フランスへわたりパリソルボンヌ大学に3年間私費留学。1954年7月、グルノーブル大学へ移籍。スペイン北アフリカへ、単車ヴェスパで旅行する。同年12月、スイスへ旅行し、フライブルクの修道院に24日間滞在する。1955年7月、イタリアへ、同年9月ギリシアへそれぞれ40日間の単車ヴェスパにて旅行。10月下旬パリに出て滞在。1956年、3月からドイツ、オーストラリア、イギリスを旅行する。そして同年7月、フランス留学を終え帰国、東京都大田区新井宿に住むが、東京大学には復学せず、そのまま創作活動にはいる。
1957年、丹羽正、金子博等と共に同人雑誌『青銅時代』を創刊。第1号に「アポロンの島と八つの短編」を発表する。(1965年までに青銅時代は10号を発行する)1957年10月、ヨーロッパを放浪した体験を自伝風に描いた『アポロンの島』を私家版で刊行するがまったく売れず。その後も『青銅時代』・『近代文學』に作品を発表し続ける。1960年1月には、長男が誕生。同年4月、藤枝市に移り住む。1961年9月次男誕生。そして1965年6月、私家版『アポロンの島』を唯一買った島尾敏雄が突然藤枝の小川家を訪れ、そして同年9月5日の『朝日新聞』「1冊の本」欄で、私家版『アポロンの島』を島尾敏雄が激賞する。これが契機となり、1966年から商業雑誌に登場。古井由吉黒井千次後藤明生らと共に内向の世代の作家と目された。自身の経験から深めた主題として、自然や神と人間との関わりを描いており、非現実や抽象に基づくイメージを交えた内省的かつ簡勁な文体、郷里の静岡県(方言が作品中に多く用いられている)や地中海を原形とする小さい共同体を多く扱うことが特徴である。主としてキリスト教、地中海世界を描いたものが多いが、能楽にも深い関心があった。
1986年「逸民」で川端康成文学賞、1994年『悲しみの港』で伊藤整文学賞、1999年『ハシッシ・ギャング』で読売文学賞、2000年日本芸術院賞受賞、2005年日本芸術院会員、2006年旭日中綬章受章。若い頃は友人で作家の丹羽正の影響もあり、賞嫌いとして知られていた(「賞で伸びる人間もいるが、伸びることができなくなる人間もいる。自分は後者」とは本人の言であり、芥川賞を固辞したとも言われている)。
立原正秋とは若いときから親交があり、立原も同人雑誌『青銅時代』にも寄稿するなど、その交流は立原の死まで続いた。
息子の母校である静岡聖光学院中学校・高等学校の校歌「聖光讃歌」の作詞をしている。
1990年4月 大阪芸術大学文芸学科教授に就任。平家物語芭蕉芥川などを講じる。のちに創作演習ゼミ、卒業制作ゼミを担当し、学生に小説の書き方を教えるかたわら、同大学発行の文芸雑誌『河南文学』『河南文藝文学篇』の編集人を務めた。2005年3月に退任。
2008年4月8日静岡市内の病院で肺炎のため死去。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小川国夫」の詳細全文を読む




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