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小川未明 : ミニ英和和英辞書
小川未明[おがわ みめい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

小川 : [おがわ]
 【名詞】 1. streamlet 2. brook 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [ひつじ, み, いま(だ)]
 【名詞】 1. not yet 
未明 : [みめい]
  1. (n-adv,n-t) early dawn 2. grey of morning 3. gray of morning 

小川未明 : ウィキペディア日本語版
小川未明[おがわ みめい]

小川 未明 (おがわ みめい、1882年明治15年)4月7日 - 1961年昭和36年)5月11日)は、小説家児童文学作家。本名は小川 健作(おがわ けんさく)。「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれる。娘の岡上鈴江も児童文学者。
なお「未明」は、正しくは「びめい」とよむ。
== 来歴 ==
新潟県高田(現上越市)に生まれる。父澄晴はかつて修験者だった。上杉謙信の熱烈な崇拝者でもあった澄晴は、春日山神社を創建するため奔走した〔上杉謙信公のふるさと 上越市の観光のページ 春日山神社 (上越市)〕。
旧制高田中学(現新潟県立高田高等学校)、東京専門学校(早稲田大学の前身)専門部哲学科を経て大学部英文科を卒業、坪内逍遙島村抱月から指導を受け、また出講していたラフカディオ・ハーンの講義に感銘を受け、卒業論文ではハーンを論じた。在学中、ロシア文学に親しみ、またナロードニキの思想に関心を寄せた。

在学中の1904年(明治37年)、処女作「漂浪児」を雑誌『新小説』に発表し注目される。この時、逍遥から「未明」の号を与えられる。卒業直前に『新小説』に発表した「霰に霙」で小説家として一定の地位を築く。卒業後、早稲田文学社に編集者として勤務しながら、多くの作品を発表する。作品は清潔なものが多く、1916年(大正5年)に「遊蕩文学」論争が起きた時、遊蕩を描かない小説家は漱石と小川未明くらいだと言われた。
1925年(大正14年)には早大童話会を立ち上げる。1926年(大正15年)、東京日日新聞に「今後を童話作家に」と題する所感を発表し童話専念を宣言する。一説には師の逍遥から小説家としての限界を指摘されたからとも言われる。1946年(昭和21年)に創立された日本児童文学者協会の初代会長を務め、1951年(昭和26年)に日本芸術院賞を受賞〔『朝日新聞』1951年4月1日(東京本社発行)朝刊、2頁。〕、文化功労者に選定され、1953年(昭和28年)には日本芸術院会員に推挙された。
しかし同年、ともに童話会の会員だった鳥越信古田足日の二人を中心をした「少年文学宣言」が発表され、未明と浜田広介は、古い児童文学として否定されるという、苦渋の晩年も送った。1961年(昭和36年)に79歳で死去した。
長篇よりもむしろ短編作品に才能を発揮した。童話の代表作としては、「金の輪」(『労働文学』1919年4月)、「赤い蝋燭と人魚」(『朝日新聞』1921年2月16日〜20日)、「月夜と眼鏡」(『赤い鳥』1922年7月)、「野薔薇」(『小さな草と太陽』、赤い鳥社、1922年9月)など。その多作ぶりから「日本のアンデルセン」とも評される。没後、小川未明文学賞が創設された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小川未明」の詳細全文を読む




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