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小川 淳司(おがわ じゅんじ、1957年8月30日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(外野手)。2010年シーズン途中から2014年シーズンまで東京ヤクルトスワローズの監督を務めた。 == 経歴 == 中学時代は三塁手としてプレーし、目立った実績のないまま地元の習志野高校に進学〔朝日新聞、2001年7月5日付朝刊、千葉地方面〕。体が大きく肩が強かったため捕手にコンバートされたが、故障者が出たのをきっかけに1年生の秋に投手に転向した。肋間神経痛でも走り込みを休めなかったというほどの猛練習を積み〔、エースとなる。、2年生時の夏の甲子園県予選では、4回戦で銚子商の土屋正勝と投げ合い、0対2で惜敗〔。秋季関東大会ではベスト4に入り、翌春の選抜大会に出場したが、赤嶺賢勇を擁する豊見城高に一回戦で敗れた。 同年夏の甲子園県予選では、準決勝で銚子商(前年夏の優勝メンバーでは篠塚利夫〔但し湿性肋膜炎からの病み上がりだった。〕が残っていた)と再び対戦し、自ら2ランホームランを放って勝利〔朝日新聞、2008年6月19日付朝刊、千葉地方面〕。続く決勝では君津高を破って夏の選手権出場を決めた。選手権では3試合連続完封などの活躍を見せ、準決勝で肩を痛めながらも決勝で新居浜商に9回裏サヨナラ勝ち、8年ぶりの優勝を果たす。同年秋の三重国体では、決勝で新居浜商にまたも9回裏逆転サヨナラ勝ち、優勝を飾る。 中央大学では外野手に転向し〔、東都大学リーグでは通算98試合出場、351打数80安打、打率.228、5本塁打、39打点の成績を残した。また、4年生のにはエース香坂英典を擁し春季リーグで5年ぶりに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で早大を降し優勝。同じ中大から香坂、高木豊、熊野輝光らと共に同年の日米大学野球の代表に選ばれ、原辰徳、岡田彰布とともにクリーンアップを任されている。卒業後は河合楽器に進み都市対抗野球大会に2年連続出場〔、1981年のドラフト会議で4位指名されヤクルトに入団〔。 1年目から一軍に定着するも、当初は対左投手要員として起用されることが多かった。1984年には右翼手の定位置を得て65試合に先発出場。翌年もレギュラーを守るが、1986年には故障もあり打撃が低迷。その後は荒井幸雄の入団、広沢克己の外野手転向もあって準レギュラーとして起用された。長打力に定評があり、3度の11本塁打をマークしている。1991年に戦力外通告を受け、1992年、角盈男との交換トレードにより日本ハムファイターズに移籍し、この年限りで現役引退した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小川淳司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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